四十二章経の現代語訳 31~40

21~30の続きです。序文はこちら1~10  11~20 21~30

31 琴のたとえ

ある沙門が夜に経を唱えていましたが、はなはだ悲しげでした。心には後悔と疑いがあり、(出家生活をやめて俗に)帰ろうかという思いが生じかけていました。ブッタは沙門を呼んで彼に質問しました。「あなたは家にいたときは何を修めていましたか。」答えて言いました。「いつも琴を弾いていました。」ブッタは言いました。「弦を緩めればどうなりますか」。彼は言いました。「鳴りませんね。」「弦を張りすぎたらどうなりますか。」彼は言いました。「音が絶えますね。」「張るのと緩めるのの中間を得たらどうなりますか」「どの音もみなもの美しく響きます」。ブッタは沙門に告げました。「学びの道もちょうどそのようなものだ。心をとらえて適切に調節すれば、道は得ることが可能です。」

有沙門夜誦經甚悲。意有悔疑。欲生思歸。佛呼沙門問之。汝處于家將阿修爲。對曰。恒彈琴。佛言。絃緩何如。曰不鳴矣。絃急何如。曰聲絶矣。急緩得中何如。諸音普悲。佛告沙門。學道猶然。執心調適道可得矣

  • 思歸:これだけでは何を意味するか不明確だが、パラレルの雑阿含252を参考にして「還俗を思った」と理解した。ちなみに還俗とは僧侶をやめて在家に戻ること。
  • 汝處于家將阿修爲:この「将」はどういう意味だろうか。疑問と関連してしばしばこの字は用いられるが、未来のことを聞くことが多い。ここでは過去の習慣について聞いている場面で使われているようだが珍しい。
  • 阿修:「阿」は何のまちがいで、高麗蔵の画像を確認すると「何」になっている。大正蔵が高麗蔵を写し間違えたらしい。
  • 32と組。

32 鉄工

ブッタは言いました。「さて人が道をおさめるのは、鉄を鍛えるときのようなものだ。段々と深くして垢を捨て去れば、完成した器は必ずよいできあがりになる。道を学ぶときも、段々と深くし心の垢を離れることによって、努力し、道につく。

むりやりにやれば、すぐに身が疲れる。身が疲れればすぐに心が悩む。心が悩めばすぐに行いは退く。行いが退けば、すぐに罪をおさめることになるだろう。」

佛言。夫人爲道、猶所鍛鐵、漸深棄去垢、成器必好。學道以漸深去心垢。精進就道。暴即身疲。身疲即意惱。意惱即行退。行退即修罪

  • 雑1246に相応。
  • 31と組。

33 道の人も、道の人で無い人も苦しい

ブッタは言いました。「道を行う人もまた苦しい。道を行わない人もまた苦しい。人について考えれば、生まれてから老いへと至る。老いから病へと至る。病から死へと至る。その苦しみは計り知れない。心の悩みが罪を積みあげ、生死が静まることはない。その苦しみは説くのが難しい。」

佛言。人爲道亦苦。不爲道亦苦。惟人自生至老。自老至病。自病至死。其苦無量。心惱積罪。生死不息。其苦難説

  • 出家したからといって、老いて病にかかり死に至るというその根本的な苦しみが無くなるわけではない、ということだろうか。
  • 「難しい」で34と組。

34 仏に会いがたし

ブッタは言いました。「さて人というものは、(地獄・餓鬼・畜生の)三悪道を離れて人となることは難しい。すでに人となってからも女を離れて男になるのは難しい。すでに男となっても、六根が完備するのは難しい。六情がそなわっていても、国の中心に生まれるのは難しい。すでに国の中心にいても、仏道に出会い、それを奉じることは難しい。すでに仏道を奉じても道をたもつ人に出会うのは難しい。菩薩(=道を目指す人)の家に生まれるのは難しい。すでに菩薩の家に生まれたならば、心から三尊を信じなさい。ブッタに会うことは世の中で(特に)難しいことだ。」

佛言。夫人離三惡道得爲人難。既得爲人去女即男難。既得爲男六情完具難。六情已具生中國難。既處中國値奉佛道難。既奉佛道値有道之君難。生菩薩家難。既生菩薩家以心信三尊。値佛世難

  • 三悪道:地獄、餓鬼、畜生の三つの生まれのこと。
  • 六情:古い訳では六根のことをしばしばし六情と訳す。六根とは眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚器官のこと。『佛學大辭典』(丁福保)の「六情」の項目にはいくつか用例を引いてこれを説明している。ここに出ている用例を見る限りでは、古いと言っても、鳩摩羅什以降もしばしば使われたものらしい。
  • 菩薩:ここでは「悟りを目指しうる人」ぐらいの意味で理解した。この経を読む限りでは「人間として誕生しきちんとブッタに会うことが出来る生まれの人」が「菩薩に生まれる」ということのようである。

35 人命の無常

ブッタは沙門たちに質問しました。「人の命はどのぐらいの間存在するだろうか。」答えて言いました。「数日の間あります。」ブッタは言いました。「あなたはまだ道をおさめることができていない。」

また一人の沙門に質問しました。「人の命はどのぐらいの間存在するだろうか。」答えて言いました。「食事の間あります。」ブッタは言いました。「お前はまだ道をおさめることができていない。」

また一人の沙門に質問しました。「人の命はどのぐらいの間存在するだろうか。」答えて言いました。「呼吸の間です。」ブッタは言いました。「よきかな。お前は道をおさめている者だと言えるだろうね。」

佛問諸沙門。人命在幾間。對曰。在數日間。佛言。子未能爲道。復問一沙門。人命在幾間。對曰。在飯食間。佛言。子未能爲道。復問一沙門。人命在幾間。對曰。呼吸之間。佛言。善哉。子可謂爲道者矣

  • 『大智度論』巻21念死にこれの発展した形のものが出る。『四十二章経』が『大智度論』を引用したなどとも言われるが、熟語などの表現に類似性はなく、一般に言われるように『四十二章経』が『大智度論』を見て要約したという説は、根拠が乏しいように思う。

36 吾戒

ブッタは言いました。「弟子が私を離れること数千里であっても、私の戒を心に思っているならば必ず道を得るだろう。わたしのそばにいても、心が邪なことにあるならば決して道を得ることはないだろう。自分で実際に行いに身を置く人と、近くにいながら行わない人とでは、どうしてその利益は一万分の一と言えるだろうか。(いや、もっとずっと少ないはずである。)」

佛言。弟子去離吾數千里。意念吾戒必得道。在吾左側、意在邪終不得道。其實在行。近而不行。何益萬分耶

37 蜜のたとえ

ブッタは言いました。「道をおさめる人は、まるで蜜を食べる人のようなものだ。真ん中も端っこもみな舐めてしまう。わたしの教えもそうだ。その意味はみな快いものである。行えば道を得るだろうね。」

佛言。人爲道猶若食蜜中邊皆甜。吾經亦爾。其義皆快。行者得道矣

38 ネックレスのたとえ

ブッタは言いました。「道をおさめる人は愛欲の根を抜くことができる。たとえばネックレスの珠をつまむようなものだ。一つ一つこれをつまむと、最後には全部つまみ終わる時に出会う。(それと同じように)悪が尽きれば道を得るのである。」

佛言。人爲道、能拔愛欲之根。譬如摘懸珠。一一摘之。會有盡時。惡盡得道也

  • この部分の訳にはあまり自信がない。まず、「懸珠」をネックレスと訳したがこの訳が正しいか分からない。また「會有盡時」を「尽有る時に出会う」という意味で理解したが、時に出会うという表現は特殊なので、無理な解釈なのかもしれない。

39 離泥

ブッタは言いました。「沙門たちが道を行うのは、ちょうど牛が何かを背負って、深い泥の中を行くようなものだ。疲れ切っていて、わざわざ左右を見るようなことはしない。急いで泥を離れたいと思い、そうして自ら安らぐ。沙門は情欲をこの泥よりもはなはだしい(邪魔な)ものと見るのである。まっすぐに心が道を思えば、多くの苦しみを免れることができる。」

佛言。諸沙門行道。當如牛負行深泥中。疲極不敢左右顧。趣欲離泥以自蘇息。沙門視情欲。甚於彼泥。直心念道可免衆苦

  • 趣欲離泥:趣の意味が問題である。漢辞海には副詞として「急いで」の意味が載っているからそれだろうか?趣欲という熟語自体はSATで引く限りそこそこ使われているようだ。

40 諸侯

ブッタは言いました。「わたしは諸侯の位を旅の客ぐらいに見ている。金や玉の宝を石つぶてぐらいに見ている。きれいで見た目のよい絹織物を、ぼろぼろになった布切れぐらいに見ている。」

佛言。吾視諸侯之位如過客。視金玉之寶如礫石。視素之好如弊帛

  • 素:「ソ(呉音)(漢音)」「色を染めていない絹」。『漢辞海』によれば『説文』では「白い緻密な絹織物」と解説しているそうである。
  • 帛:「ハク(漢音)」「きぬ、絹織物の総称。書写に用いる絹布」。『漢辞海』によれば『説文』では「絹織物」と解説しているそうである。書写などに用いた布切れのことも帛と言うので、「弊帛」はおそらくそのイメージではないだろうか。

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以上が四十二章経の全訳です。本サイトでは四十二章経をあえて40に分けて翻訳しました。伝統的には本サイトで言うところの5と9をそれぞれ二つに分けて、四十二章になります。本サイトが5と9を分けなかった理由については今後、時間のあるときに四十二章経の解説を書くのでそこに書きたいと思います。

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