四十二章経の現代語訳 21~30

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情欲(前回からの続き)

21 愛欲に焼かれる(逆風炬火)

ブッタは言いました。「人にとって愛欲とは、まるでたいまつを執って風に逆らって行くようなものである。愚か者はたいまつを放さずに、必ず手を焼くことになるだろう。淫らな貪り、怒り、愚かさの毒は人の身にある。早く道によってこの災いを除かなければ、必ず危険やわざわいがあるだろう。ちょうど愚か者がたいまつにこだわって自らの手を焼くのと同じである。」

佛言。愛欲之於人。猶執炬火逆風而行。愚者不釋炬。必有燒手之患。貪婬恚怒愚癡之毒。處在人身。不早以道除斯禍者。必有危殃。猶愚貪執炬自燒其手也

  • 不釋炬:釈は「解き明かす」という意味のほかに「解き放つ、捨てる」という意味でも使う。ここでは「たいまつを放さなかった」の意味。
  • 貪婬恚怒愚癡之毒:仏教では貪欲と怒りと愚かさの三つを「三毒」と言う。三毒を貪婬・恚怒・愚癡と訳すのは呉支謙にも同じ用例が見られる。比較的古い訳語であると思う。
  • 蜜刀のたとえもそうであるが、欲そのものが害だというよりも人間は欲を前に自制することができず、自らを傷つけてしまうことを問題視している。

22 美女の献上

神が宝石のように美しい女をブッタに献上しました。それによってブッタを試し、ブッタの道を見ようと思ったのでした。ブッタは言いました。「多く汚れた革袋を、あなたは何のために持ってきたのか。これによって俗人を動かすことはできるが、六神通(の持ち主)を動かすことは難しい。わたしを離れなさい。あなたを使うつもりはない。」

神はますますブッタを敬いました。そして道の心を質問しました。ブッタは解釈をしてあげました。彼はすぐにシュダオンを得ました。

神獻玉女於佛。欲以試佛意觀佛道。佛言。革嚢衆穢。爾來何爲。以可斯俗難動六通。去吾不用爾。神踰敬佛。因問道意。佛爲解釋。即得須陀洹

  • 以可斯俗難動六通:可の後ろにある「斯」は代動詞だろうか。「もって俗をしかすることは可なるも、六通を動ずるは難し」と訓読できる。六通は六神通のことである。古代のインドでは修行者が悟ると六種の神通力を獲得すると信じられていた。
  • 踰:「ユ(漢音)(呉音)」「こえる、のりこえる」。ここでは副詞的に用いられている。「以前にもまして」という意味であろう。
  • 須陀洹:シュダオン。仏教の位階の一つで、「流れに入った者」という意味。四沙門果の最初。

23 両岸につかない流木

ブッタは言いました。

「そもそも道をおさめるということは、ちょうど木が水のなかにあって、流れにしたがって進んでいるようなものだ。左に行って岸に触れることもないし、また右に行って岸に触れることもない。だから人に取られることもなく、鬼神にさえぎられることもない。回流につかまることもないし、腐ることもない。私(=流木)は身を安全に保って、海に入るのである。

人が道をなすときは情欲によって惑わされず、多くの邪悪にたぶらかされず、精進して疑わないことだ。(このようにして)わたしは自分の身を安全に保って道を得るのである。」

佛言。夫爲道者。猶木在水尋流而行。不左觸岸。亦不右觸岸。不爲人所取。不爲鬼神所遮。不爲洄流所住。亦不腐敗。吾保其入海矣。人爲道不爲情欲所惑。不爲衆邪所誑。精進無疑。吾保其得道矣

  • 尋流而行:尋には「探し求める、あとを追う」のような意味があるので「流れを追いかける→流れにしたがう」という意味になったか。『漢辞海』にはこの意味は掲載されていない。
  • 吾保其入海矣:ここでは吾という語が流木を意味している。「わたし」という意味から外れて用いられることはとても珍しい。

24 心は信じるべきではない

ブッタは沙門に告げました。「気をつけてお前の心を信じることがないようにしなさい。心とは決して信じるべきものではありません。(また、)気をつけて色と合うことがないようにしなさい。色と合えばすぐにわざわいが生じます。アラカン道を得てはじめて、あなたの心は信じてもよいでしょう。」

佛告沙門。愼無信汝意。意終不可信。愼無與色會。與色會即禍生。得阿羅漢道。乃可信汝意耳

  • 與色會:おそらく「セックス」のこと。交合とか情会とか色々な言い方がされる。もしくは単に「姿形に迎合する」ぐらいの意味だろうか。
  • 佛告ぐ沙門で25と組。「慎みて」という点でも25と組である。

25 情欲を去る

ブッタは沙門たちに告げました。「女人をジロジロ見ることがないように気をつけなさい。もし出会うことがあってもジロジロと見てはいけません。(また)言葉を交わすことがないように気をつけなさい。もし言葉を交わしたならば、心を諫め行いを正して、「わたしは沙門です」と言いなさい。濁世にいても、まさに蓮華が泥にけがされないように、老いた女性は母親だと思い、年上の女性は姉だと思い、年下の女性は妹だと思い、幼い者は自分の子供だと思いなさい。彼女たちを敬って礼儀をもって接しなさい。心はいつも以上にはっきりと(彼女たちを)思考し観察するべきです。頭から足に至るまで自分で内側を見ます。その身に何があるというのでしょうか。ただ醜い体液ともろもろの不浄なものを盛りつけただけのものです。これを見て、その(情欲の)心を捨てるのです。」

佛告諸沙門。愼無視女人。若見無視。愼無與言。若與言者。勅心正行。曰吾爲沙門。處于濁世。當如蓮花不爲泥所汚。老者以爲母。長者以爲姉。少者爲妹。幼者子。敬之以禮。意殊當諦惟觀。自頭至足自視内。彼身何有。唯盛惡露諸不淨種。以釋其意矣

  • 惡露:現代語だと「悪露(おろ)」は出産のあとに出る血液などの分泌液のことだが、ここではより広く「醜い液体の代謝物」のこと。男性の比丘が自分の体を観察する場合にもこの単語が用いられるので、女性に限定して用いられる語ではない。ただし六度集経などにすでに出産時の分泌液のことを悪露と書いている例がある。ex. 「女夫人在産。㝃娠得男。又無惡露」(『六度集経』)

26 情欲を去る

ブッタは言いました。「人は道をおさめて、情欲を離れます。それはちょうど草に火がついているのを見て、火がこちらに来たらしりぞくのと同じです。道の人は愛欲を見て、必ずこれを遠ざけるべきでしょう。」

佛言。人爲道去情欲。當如草見火。火來已却。道人見愛欲。必當遠之

27 情欲(断根)

ブッタは言いました。「ある人に病気があり、淫らな気持ちが止まりませんでした。その人は斧の刃の上に座ると、それによって自ら自分の陰部を除きました。」

ブッタはこれについて言いました。「陰部を断つことは心を断つことにはおよびません。心は役人で言えば功曹(=重要な政務をつかさどった中国の役職)です。もし功曹を止めれば、彼に従う者はみな静まります。邪な心を止めずに陰部を断ったところで、何の利益があるでしょうか。このようにしたならば、すぐに死ぬことになる(だけ)でしょう。」

佛言。人有患婬情不止。踞斧刃上。以自除其陰。佛謂之曰。若斷陰不如斷心。心爲功曹。若止功曹。從者都息。邪心不止斷陰何益。斯須即死。

  • 踞:「キョ(漢音)コ(呉音)」「うずくまる」。『漢辞海』の解説によれば踞はお尻を敷物や床につける座り方だそうである。
  • 功曹:「漢代以降、地方の行政長官の属官。人事など重要な政務をつかさどった。」(『漢辞海』)。
  • 自分の陰部を切り取った男の話。陰部を断ったところで出血多量で死ぬだけであると述べている。『四十二章経』は中国で作られたという説もあるが、こういう言葉が出る辺り、宦官文化を前提にしていないのかもしれない。(ムガル帝国などずっと後のインドでは宦官がいたそうであるが、古代インドではどうだったのだろうか?要検討であろう。)

28 情欲(迦葉仏の歌)

ブッタは言いました。「世俗の間違った見解は、このようなものだ。ある愚かな人が遊女の少女とその男とで誓いをした。しかし、期日が来ても彼女は来なかった。そこで男は自ら悔いて言った。『わたしがあなたの真意を知ることができればよかったのに。思想によって(すべては)生じる。あなたを思う気持ちがなければ、すぐにあなたもまた生じなくなる。』と。」

ブッタは道を歩んでいるときに之を聞いて沙門に言いました。「これを記録しなさい。これは迦葉仏の偈が俗人の話として流れているものだ。」

佛言。世俗倒見如斯。癡人有婬童女與彼男誓。至期不來而自悔曰。欲吾知爾本意。以思想生。吾不思想爾。即爾而不生。佛行道聞之謂沙門曰。記之。此迦葉佛偈。流在俗間

  • 倒見:「倒れた見解」。つまり正しい向きとは逆向きの見解。「まったく間違ったものの見方」のことを言う。
  • 思想:「懸想すること」「好意を寄せること」の意味で使っているようである。
  • 迦葉佛:ゴータマの前に活躍していたとされるブッタ。過去七仏の中でゴータマの次に新しい人。

■畏れ

29 無畏

ブッタは言いました。「人は愛欲から憂いを生じる。憂いから畏れを生じる。愛が無いならば憂いが無いということだ。憂えないならば、畏れが無いということだ。」

佛言。人從愛欲生憂。從憂生畏。無愛即無憂。不憂即無畏

  • 愛欲の話でありまた畏れの話でもある。愛欲のまとまりからスムーズに畏れの話へ連結している。無畏ということで30と組。

30 無畏(万人と戦う)

ブッタは言いました。「道をおさめる人は、一人で一万人と戦う人に喩えられる。鎧を着て武器を操り、門から出て戦おうとする。心がおびえて度胸がなければ、自分で走り逃げてしまう。あるものは道のなかばで帰り、あるものは戦って死に、あるものは大きな勝利を得て国に帰って高らかに凱旋する。そもそも、人は自分の心をしっかりと持つことができるものだ。心を研ぎ澄まして前に進み、世間にながれる狂った愚かな言葉に惑わされないならば、欲は滅び悪は尽きて、必ず道を得るのである。」

佛言。人爲道譬如一人與萬人戰。被鉀操兵出門欲戰。意怯膽弱乃自退走。或半道還。或格鬪而死。或得大勝還國高遷。夫人能牢持其心。精鋭進行不惑于流俗狂愚之言者。欲滅惡盡。必得道矣

  • 鉀:「コウ(漢音)」「よろい。」(『漢辞海』)。
  • 膽:現代語で言う「胆」に当たる字。「肝っ玉。度胸」。

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