雑阿含経578. はじらいの心

原文

(五七八)

如是我聞。一時佛在舍衞國祇樹給孤獨園。時有天子。容色絶妙。於後夜時。來詣佛所。稽首佛足。身諸光明。遍照祇樹給孤獨園。時彼天子而説偈言
常習慚愧心 此人時時有
能遠離諸惡 如顧鞭良馬

爾時世尊説偈答言
常習慚愧心 此人實希有
能遠離諸惡 如顧鞭良馬

時彼天子。復説偈言
久見婆羅門 逮得般涅槃
一切怖悉過 永超世恩愛
時彼天子聞佛所説。歡喜隨喜。稽首佛足。即沒不現

現代語訳

このようにわたしは聞きました。あるときブッタは舍衞国の祇園に滞在しておりました。見た目の大変よいある天子が、明け方ごろにブッタのところにやってきて、深くブッタの足に礼をしました。そして身体から出るいろいろな光が、あまねく祇園を照らしました。さて、その天子は詩を唱えて言いました。

「常にはじらう心を習いとしている、このような人は時々いる。

(その人は)悪を離れることができる。良馬が鞭を振り返って(鞭に打たれるのを避ける)ように。」

そのとき世尊は詩を説いて答えました。

「常にはじらう心を習いとしている、このような人は非常に珍しい。

(その人は)悪を離れることができる、良馬が鞭を振り返って(鞭に打たれるのを避ける)ように。」

さてその天子は、また詩句を唱えました。
「久しぶりに完全な涅槃にたどり着いたバラモンを見ました。すべての恐怖をことごとく通り過ぎて、永遠に世間の恩愛を超え出ています」
その天子はブッタの所説を聞いて、大喜びし、深くブッタの足に礼をして、すぐさま姿を消して見えなくなりました。


パラレル

  • SN.1.18。漢訳とおおまかには似ているが、違いも大きい。特に世尊の返した偈に違いがある。現代語訳
  • 漢訳では「慚愧心」となっているが、パーリではhirī(慚、内心への恥)となっている。

8. Hirīsuttaṃ

18. ‘‘Hirīnisedho puriso, koci lokasmiṃ vijjati.

Yo nindaṃ apabodhati [apabodheti (syā. kaṃ. ka.)], asso bhadro kasāmivā’’ti.

‘‘Hirīnisedhā tanuyā, ye caranti sadā satā;

Antaṃ dukkhassa pappuyya, caranti visame sama’’nti.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です