雑阿含経14. 味・患・離2

本文と現代語訳

(一四)

如是我聞。一時佛住舍衞國祇樹給孤獨園。爾時世尊告諸比丘。

このようにわたしは聞きました。あるとき仏は舍衞國の祇園に住んでおられました。そのとき世尊は比丘たちに告げました。

我昔於色味有求有行若於色味隨順覺。則於色味以智慧如實見。如是於受想行識味。有求有行。若於受想行識味。隨順覺則於識味。以智慧如實見。

諸比丘。我於色患。有求有行。若於色患。隨順覺。則於色患。以智慧如實見。如是受想行識患。有求有行。若於識患。隨順覺。則於識患。以智慧如實見。

諸比丘。我於色離。有求有行。若於色隨順覺。則於色離。以智慧如實見。如是受想行識離。有求有行。若於受想行識離。隨順覺則於受想行識離。以智慧如實見。

「私は昔、色の味わいについて、求めることがあり、修行することがあった。色の味わいを、それに沿って理解したとき、色の味わいについて智慧によってありのままに見た。同じように受想行識の味わいについて、求めることがあり、修行することがあった。受想行識の味わいをそれに沿って理解したとき、識の味わいについて智慧によってありのままに見た。

比丘たちよ。私は昔、色のわずらいについて、求めることがあり、修行することがあった。色のわずらいをそれに沿って理解したとき、色のわずらいについて智慧によってありのままに見た。同じように受想行識のわずらいについて、求めることがあり、修行することがあった。識のわずらいをそれに沿って理解したとき、識のわずらいについて智慧によってありのままに見た。

比丘たちよ。わたしは色の出離について、求めることがあり、修行することがあった。色(の出離)をそれに沿って理解したとき、色の出離について智慧によってありのままに見た。同じように受想行識の出離について、求めることがあり、修行することがあった。受想行識の出離をそれに沿って理解したとき、受想行識の出離について智慧によってありのままに見た。

諸比丘。我於五受陰。不如實知味是味。患是患。離是離者。我於諸若魔若梵沙門婆羅門天人衆中。不脱不離不出。永住顛倒。不能自證得阿耨多羅三藐三菩提。諸比丘。我以如實知五受陰。味是味。患是患。離是離。我於諸人若魔若梵沙門婆羅門天人衆中以脱*以離*以出。永不住顛倒。能自證得阿耨多羅三藐三菩提。

比丘たちよ。わたしが五つの執着するかたまりについて、味を味である、患いを患いである、出離を出離であるとありのままに知らなかったならば、わたしは・悪魔・梵・沙門バラモン・人というものたちの中で、逃れることも離れることも脱出することもできずに、永遠に誤りのなかに暮らしていただろう。また最高の悟りを自ら知ることもなかっただろう。

比丘たちよ。わたしはこの五つの執着するかたまりについて味わいは味わいである、患いは患いである、出離は出離であるとありのままに知ったことによって、・悪魔・梵・沙門バラモン・人というものたちの中で、逃れることができ、離れることができ、脱出することができ、永遠に誤りのなかに住むことが無くなった。また最高の悟りを自ら知ったのだ。」

時諸比丘聞佛所説。歡喜奉行

そのとき比丘たちはブッダの教えを聞いて、喜び承りました。


コメント

ゴータマの過去の修行について述べた経典である。

パラレルについて

パラレル (翻訳

  • パーリのパラレルはSN.22.27であり、よく対応している。
  • 列挙の順番がパーリと漢訳で異なっている点は前経と同じである。
  • 漢訳で有求有行となっているところがパーリではpariyesanaṃ acariṃ(遍求を行った)となっており、動詞を二つ並べているわけではない。
  • 漢訳に対応がないSN.22.26は内容の上から見てもおそらく新しく作られた経典なのではないだろうか。これ以前の経典でもしばしば言及したように、パーリの五蘊品は三経一組とするためにいくらか増広が行われているようである。

6. Dutiyaassādasuttaṃ

27. Sāvatthinidānaṃ . ‘‘Rūpassāhaṃ, bhikkhave, assādapariyesanaṃ acariṃ. Yo rūpassa assādo tadajjhagamaṃ. Yāvatā rūpassa assādo paññāya me so sudiṭṭho. Rūpassāhaṃ, bhikkhave, ādīnavapariyesanaṃ acariṃ. Yo rūpassa ādīnavo tadajjhagamaṃ. Yāvatā rūpassa ādīnavo paññāya me so sudiṭṭho. Rūpassāhaṃ, bhikkhave, nissaraṇapariyesanaṃ acariṃ. Yaṃ rūpassa nissaraṇaṃ tadajjhagamaṃ. Yāvatā rūpassa nissaraṇaṃ paññāya me taṃ sudiṭṭhaṃ.

Vedanāyāhaṃ, bhikkhave… saññāyāhaṃ, bhikkhave… saṅkhārānāhaṃ , bhikkhave… viññāṇassāhaṃ, bhikkhave, assādapariyesanaṃ acariṃ. Yo viññāṇassa assādo tadajjhagamaṃ. Yāvatā viññāṇassa assādo paññāya me so sudiṭṭho. Viññāṇassāhaṃ, bhikkhave, ādīnavapariyesanaṃ acariṃ. Yo viññāṇassa ādīnavo tadajjhagamaṃ. Yāvatā viññāṇassa ādīnavo paññāya me so sudiṭṭho. Viññāṇassāhaṃ, bhikkhave, nissaraṇapariyesanaṃ acariṃ. Yaṃ viññāṇassa nissaraṇaṃ tadajjhagamaṃ. Yāvatā viññāṇassa nissaraṇaṃ paññāya me taṃ sudiṭṭhaṃ.

Yāvakīvañcāhaṃ, bhikkhave, imesaṃ pañcannaṃ upādānakkhandhānaṃ assādañca assādato ādīnavañca ādīnavato nissaraṇañca nissaraṇato yathābhūtaṃ nābbhaññāsiṃ…pe… abbhaññāsiṃ. Ñāṇañca pana me dassanaṃ udapādi – ‘akuppā me vimutti [cetovimutti (sī. pī. ka.)]; ayamantimā jāti; natthi dāni punabbhavo’’’ti. Chaṭṭhaṃ.

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