略論安樂淨土義 ( 曇鸞撰 )の現代語訳

略論安樂淨土義 (曇鸞撰 )

本書は安楽国(=極楽浄土)に関する簡単な問答記である。中国の南北朝期に書かれたと考えられている書物であり、著者は曇鸞だと考えられている。彼は浄土信仰の上で大変有名な人物であり、日本の浄土真宗の開祖親鸞は彼を七祖(浄土の教えを伝えた七人の主要人物)に数えている。また法然も浄土五祖として曇鸞の名前をあげているという。

本書の内容を大きく分ければ、

  1. 問い1「三界と極楽浄土の関係」
  2. 問い2「浄土の荘厳について」
  3. 問い3「上中下品と胎生について」

の三つに分かれる。問い3にはさらに深掘りした問答が付いており、文量の大半はこの問い3に割かれている。全体で1巻しかないので、比較的読みやすい問答記である。

書き下し文に聖教電子化研究会のものwikidharmaがある。大正蔵のものとは底本のテキストが微妙に異なるようである。

先行研究によれば江戸時代あたりから、この論の著者は曇鸞ではないのではないかという議論があったそうであるが、敦煌から写本が出土したため日本撰述ではないことが明らかになったそうである。現在ではおそらく曇鸞の作であろうとする見方が一般的であるらしい。ネットで閲覧出来るのは〈書評〉名畑応順述「略論安楽浄土義講案」『略論安楽浄土義』についての一考察など。

No.1957

略論安樂淨土義

釋曇鸞撰

<問い1:三界と極楽浄土との関係>

問曰。安樂國於三界中何界所攝

答曰。如釋論言。如斯淨土非三界所攝。何以故。無欲故非欲界。地居故非色界。有形色故非無色界。

經曰。阿彌陀佛本行菩薩道時。作比丘。名曰法藏。於世自在王佛所。請問諸佛淨土之行。時佛爲説二百一十億諸佛刹土人善惡國土精麁。悉現與之。于時法藏菩薩。即於佛前。發弘誓大願。取諸佛土。於無量阿僧祇劫。如所發願。行諸波羅蜜。萬善圓滿。成無上道。別業所得。非三界

問い

「安楽国は三界のうちどの界に所属するのですか。」

答え

「『釈論』で述べているように、この浄土は三界には所属するものではありません。それはなぜか。(浄土は)無欲であるから欲界ではなく、地面に位置しているから色界ではなく、形や姿があるから無色界ではないからです。経典はこう述べています。『阿弥陀仏がもともと菩薩道の修行をしていたとき、(彼は)比丘となり名前は法蔵といいました。世自在王仏のところでブッダたちの浄土の行いを請い尋ねました。そのとき世自在王仏は二百十億のブッダの領域について(そこに住まう)・人の善悪や国土のよしあしを説いてくださり、それらすべてをあらわして彼に与えました。時に法蔵菩薩は、聞くやいなや世自在王仏の目の前で、弘誓と大願を起こして、ブッダたちの土地(のよいところ)を取りました。はるかな長い時間、願を起こしたとおりに、もろもろの波羅蜜を修行し、たくさんの善を完成させ、無上なる道を成就しました。』(安楽国は)このような特別な行いによって得たものであり、三界ではないのです。」

コメント
  • 『釈論』:「聖教電子化研究会」によれば大智度論の38のこと。
  • 安楽国:極楽浄土のこと。
  • 三界:色界、欲界、無色界の三つの領域を三界と呼ぶ。色界は上にあると考えられていたので、「安楽国は地面に位置しているから色界ではない」という説明がなされている。
  • 阿含仏教の後期ごろ(?)から登場するカテゴリー。欲界・色界・無色界の三つに世界を分ける。
  • 二百一十億諸佛刹土人善惡國土精麁:この書き方からすると、「刹土」と「國土」は区別されていたらしい。

<問い2:浄土のすばらしさ>

問曰。安樂國有幾種莊嚴。名爲淨土。

答曰。

若依經據義。法藏菩薩四十八願即是其事。尋讃可知。不復重序。

若依無量壽論。以二種清淨。攝二十九種莊嚴成就。

二種清淨者。一器世間清淨。二是衆生世間清淨。

 

問い

「安楽国には何種類の立派なようすがあって、浄土というのですか。」

答え

「経典と義(?)によれば、法蔵菩薩の四十八の誓願が、その「立派なようす」にあたります。『讃』を見て知るのがよいでしょう。(内容が重複するのでここでは)重ねて並べることはしません。もし『無量寿論』によるならば、二種の清浄に二十九種の立派なようすの完成が所属しています。二種の清浄というのは、一つが器世間の清浄であり、二つ目が衆生世間の清浄です。

コメント
  • 『讃』:曇鸞が著した讃彌陀偈のこと。
  • 器世間:人を入れる器となっているこの世界のこと。大地や空間などもろもろを指す。bhājana-loka。
  • 衆生世間:器世間と対比して、そこに住まう生き物のこと。

器世間清淨有十七種莊嚴成就。

  • 一者。國土相勝過三界道。
  • 二者。其國廣大。量如虚空。無有齊限。
  • 三者。從菩薩正道大慈悲出世善根所起。
  • 四者。清淨光明圓滿莊嚴。
  • 五者。備具第一珍寶性。出奇妙寶物。
  • 六者。潔淨光明常照世間。
  • 七者。其國寶物柔軟。觸者適悦。生於勝樂。
  • 八者。千萬寶華莊嚴池沼。寶殿寶樓閣種種寶樹雜色光明影納世界。無量寶網覆虚空。四面懸鈴常吐法音。
  • 九者。於虚空中。自然常雨香。莊嚴普熏。
  • 十者。佛慧光明照除癡闇。
  • 十一者。梵聲開悟遠聞十方。
  • 十二者。阿彌陀佛無上法王善力住持。
  • 十三者。從如來淨華所化生。
  • 十四者。愛樂佛法味。禪三昧爲食。
  • 十五者。永離身心諸苦。受樂無間。
  • 十六者。乃至不聞二乘女人根缺之名。
  • 十七者。衆生有所欲樂。隨心稱意。無不滿足。

如是等十七種。是名器世間清淨。

「器世間の清浄には十七種類の立派さの完成があります。

  • 一、国土のすがたが、三界に勝っていることです。
  • 二、国の広大さが、まるで空のようであり、限りがないことです。
  • 三、菩薩の正しい道の大慈悲、世に出た善根(?)から生じた(国土)であることです。
  • 四、清浄な光があまねく満ちていて立派であることです。
  • 五、世の中で一番珍しい宝である性質をそなえて、貴重なすばらしい宝物を出すことです。
  • 六、清浄な光がいつも世間を照らしていることです。
  • 七、その国のたからものはやわらかく、触れるたものに快く、すぐれた喜びを生じることです。
  • 八、千や万ほどある宝の華が池と沼をかざり、宝の仏殿、宝の楼閣、さまざまな宝の樹のさまざまにまじった色の光が世界を影納(?)していることです。数え切れないほどの宝の網が空を覆い、四方には鈴が掛けられていてつねに法の音を出していることです。
  • 九、空中から自然との華、の衣、の香りが降ってきて、立派にかざり一面を香りづけていることです。
  • 十、ブッダの智慧の光が愚かさの闇を照らして除いていることです。
  • 十一、梵語の声が悟りを開き、その声があちこちに遠くまで聞こえることです。
  • 十二、阿弥陀仏というこのうえない法王のよい力によって保たれていること(?)です。
  • 十三、如来の清らかな華から(人々が)誕生することです。
  • 十四、仏法を愛楽することを味わいとし、禅・三昧を食事とすることです。
  • 十五、永遠に身体と心の苦しみを離れて、いつも楽な状態でいることです。
  • 十六、小乗や独覚、女人や根(=目などの感覚器官)が欠けた(悟れないとされている人)の名を聞かないことです。
  • 十七、生き物たちは望むものを得て、心のままであり意にかない、満足しないということがないことです。

このような十七種、これを器世間の清浄であると名付けます。

コメント
  • 4と6は内容が重複しているようにも思えるが、6では「常(いつも)」ということが言いたいので、4とは区別されるのだろう。
  • 梵聲:お経を唱える声か、ブッダの声か、あるいは梵唄(ぼんばい)のことだろうか。
  • 從如來淨華所化生:極楽浄土では人は蓮華のなかから生まれると信じられていた。化生というのは胎生や卵生と比べて、どこからともなく生じる不思議な生じ方のこと。四生
  • 稱意: 「 稱意 」を参照

衆生世間清淨有十二種莊嚴成就。

  • 一者。無量大珍寶王微妙華臺以爲佛座。
  • 二者。無量相好無量光明莊嚴佛身。
  • 三者。佛無量辨才應機説法。具足清白。令人樂聞。聞者必悟解。言不虚説。
  • 四者。佛眞如智慧猶如虚空。照了諸法總相別相。心無分別。
  • 五者。人不動衆廣大莊嚴。譬如須彌山映顯四大海。法王相具足。
  • 六者。成就無上果。尚無能及。況復過者。
  • 七者。爲人丈夫調御師。大衆恭敬圍遶。如師子王師子圍遶。
  • 八者。佛本願力莊嚴住持諸功徳。遇者無空過。能令速滿足一切功徳海。未證淨心菩薩畢竟得證平等法身。與淨心菩薩與上地菩薩。畢竟同得寂滅平等。
  • 九者。安樂國諸菩薩衆。身不動搖而遍至十方。種種應化。如實修行。常作佛事。
  • 十者。如是菩薩應化身。一切時不前不後。一心一念放大光明。悉能遍至十方世界。教化衆生。種種方便。修行所成。滅除一切衆生苦惱。
  • 十一者。是等菩薩於一切世界無餘照諸佛大會。無餘廣大無量供養恭敬讃歎諸佛如來功徳。
  • 十二者。是諸菩薩於十方一切世界無三寶處。住持莊嚴佛法僧寶功徳大海。遍示令解。如實修行。

如是等法王八種莊嚴功徳成就。如是菩薩四種莊嚴功徳成就。

是名衆生世間清淨。

衆生世間の清浄には十二種の立派さの完成があります。

  • 一、数え切れないほどの大いなる珍しい宝の王である、妙なる華の台がブッダの座となっていることです。
  • 二、数え切れないほどの(吉なる)身体的特徴と数え切れないほどの光がブッダの身を飾っていることです。
  • 三、ブッダの数え切れないほどの弁舌の才が、状況にふさわしい説法を行います。その説法は清白をそなえ、人に楽しく聞かせて、聞いたものは必ず悟ります。言ったことに、虚妄な説はありません。
  • 四、ブッダはの真実にそくした智慧は、大空のようであり、もろもろの法の大枠や細かい違いを照らしてしまいますが、心の中では差別を立てないことです。
  • 五、神々や人間の(心が)不動となった多くのものたちが広大に(ブッダの領域を)飾っています。たとえば須彌山が四方の大海に映り込んでいるように、法王(= 阿弥陀仏)の相を(彼らも)具足しています。
  • 六、(阿弥陀仏は)この上ない成果を成就しています。追いつくことすらできません、ましてや超えることなどできません。
  • 七、(阿弥陀仏は)人や丈夫(立派な男)にとって教師です。多くの人々に敬われながら取り囲まれていますが、それはまるで獅子王が獅子に囲まれているかのようです。
  • 八、阿弥陀仏の本願力がもろもろの功徳をかざり保っています(?)。この本願力にあったものは無駄になるということがありません。すみやかにすべての功徳の海を満たす力があります。まだ清浄な心を悟っていない菩薩はついに平等なる法身を悟ることができます。清浄な心の菩薩とさらに上の境地にいる菩薩は二人とも、ついに寂滅平等を得ます。
  • 九、安楽国の菩薩たちは身を揺らすこと(すら)せずに至るところへたどり着くことができます。様々にその場に応じて変化して、真実にそった修行をし、いつも仏事をなしています。
  • 十、このような菩薩のその場に応じて変化した身は、常に前でもなく後ろでもなく、一心一念ごとに大きな光明を放ちます。その光明は世界中にたどりつき、人々を教化して、様々な方便によって修行を成就させることができ、すべての人々苦悩を除くことができます。
  • 十一、これらの菩薩はすべての世界で余すことなくブッダたちの大きな集会を照らします。余すことなく、広大で数え切れないほどの供養をし、敬いをし、ブッダ・如来たちの功徳を賛嘆します。
  • 十二、この菩薩たちは十方にあるすべての世界の、三宝がないところで、仏法僧の宝を保ち、飾り付け、その功徳の大海をあまねく示して理解させます。真実にのっとって修行をさせます。

このように法王(=阿弥陀仏)には八種の立派さ、功徳の完成があり、このように菩薩には四種の立派さ、功徳の完成があります。これを名付けて衆生世間の清浄と言います。

コメント
  • 相好:「 相好 」を参照
  • 須彌山:「 須弥山 」を参照
  • 人丈夫調御師:仏の十号に「無上士調御丈夫人師」という部分がある。このうち調御丈夫人師をひとまとまりの称号としてとらえて本文のように言うのであろう。
  • 法身:三身の一つ。法身、応身、報身で三身である。三身については→一行仏学

安樂國土具如是等二十九種莊嚴功徳成就。故名淨土

安楽国の国土はこのような二十九種の立派さをそなえて、功徳を成就しています。ゆえに名付けて浄土というのです。

<問い3:上中下品と辺境>

問曰。生安樂土者。凡有幾品輩。有幾因縁。

答曰。無量壽經中。唯有三輩上中下。無量壽觀經中。一品又分爲上中下。三三而九。合爲九品。今依傍無量壽經爲讃。且據此經作三品論之。

問い

「安楽国に生まれる者にはいくつの種類の人間がいますか、またいくつの因縁がありますか。」

答え

「『無量寿経のなかには、ただ上中下の三つの人々があります。無量寿観経のなかには、一品が上中下に分かれていて、三×三で九です。合わせて九品になります。今は、無量寿経によせて讃を作るので、この経を根拠にして三品を作り、これを論じることにします。」

上輩生者有五因縁。

  • 一者。捨家離欲而作沙門。
  • 二者。發無上菩提心。
  • 三者。一向專念無量壽佛。
  • 四者。修諸功徳。
  • 五者。願生安樂國。

具此因縁。臨命終時。無量壽佛與諸大衆現其人前。即便隨佛。往生安樂。於七寶華中。自然化生。住不退轉。智慧勇猛。神通自在。

上のランクに生まれるものには五つの因縁があります。

  • 一つ、家を捨て欲を離れて沙門となること。
  • 二つ、このうえない悟りへの志を起こすこと。
  • 三つ、ひたすらに無量寿佛に念を集中すること。
  • 四つ、もろもろの功徳(よいこと)を修めること。
  • 五つ、安楽国に生まれたいと願うこと。

この因縁を備えることで、命が終わろうとするときに無量寿仏と立派な人々がその人の前に現れて、そのまま仏について行き安楽国に往生します。七宝の華のなかに自然にどこからともなく生じて、智慧勇猛であり、神通が自在となり、そこからもはや退転することはありません。

中輩生者有七因縁。

  • 一者。發無上菩提心。
  • 二者。一向專念無量壽佛。
  • 三者。多少修善奉持齋戒。
  • 四者。起立塔像。
  • 五者。飯食沙門。
  • 六者。懸繒然燈。散華燒香。
  • 七者。以此迴向願生安樂。

臨命終時。無量壽佛化現其身。光明相好具如眞佛。與諸大衆現其人前。即隨化佛往生安樂。住不退轉。功徳智慧

真ん中のランクに生まれる者には七つの因縁があります。

  • 一つ、この上ない悟りへの志を起こすこと。
  • 二つ、ひたすらに無量寿佛に念を集中すること。
  • 三つ、多かれ少なかれ善を行い、斎戒をたもつこと。
  • 四つ、仏塔や仏像を建てること。
  • 五つ、沙門に食事を与えること。
  • 六つ、飾りをかけて灯火を燃やし、華を散らし香を焚いて(供養する)こと。
  • 七つ、この(功徳)を人々に振り向けて、安楽国に生まれてほしいと願うこと。

(この因縁を備えることで)命が終わろうとするときに、無量寿仏がその身を化身として現す。、(その化身は)光明と相好を本物の仏のように備えている。化身と立派な人々がその人の前に現れて、そのまま仏について行き安楽国に往生します。功徳と智慧はもはや退転することはありません。

コメント
  • 斎戒:出家者でない仏教徒は六斎日(8日・14日・15日・23日・29日・30日)に八つの簡単な戒を守る習慣があった。これを八斎戒という。大体一週間ごとに一日は、清浄な日を過ごそうとしていたわけである。中国や日本にもこの文化は広まっており、六斎日に寺にこもって斎戒を保つことが行われた。

次如上輩、下輩生者有三因縁。

  • 一者。假使不能作諸功徳。當發無上菩提心。
  • 二者。一向專意乃至十念念無量壽佛。
  • 三者。以至誠心願生安樂。

臨命終時。夢見無量壽佛。亦得往生。功徳智慧次如中輩。

次に上のランクに生まれる人のように、下のランクに生まれるものには三つの因縁があります。

  • 一つ、もしもろもろ功徳(=善いこと)をなせなくても、この上ない悟りへの志を起こさなければなりません。
  • 二つ、ひたすらに心を向けて、せめて十念、無量寿仏を念じること。
  • 三つ、本心から安楽国に生まれたいと願うこと。

(この因縁を備えることで)命が終わろうとするときに、夢に無量寿仏を見て、その人もまた往生することができます。功徳と智慧は真ん中のランクの人に次ぎます。

又有一種往生安樂不入三輩中。謂以疑惑心。修諸功徳。願生安樂。不了佛智不思議智不可稱智大乘廣智無等無倫最上勝智。於此諸智疑惑不信。然猶信罪福修習善本。生安樂生安樂國七寶宮殿。或百由旬惑五百由旬。各於其中受諸快樂。如忉利。亦皆自然。於五百歳中。常不見佛。不聞經法。不見菩薩聲聞聖衆。安樂國土謂之邊地。亦曰胎生。

また一種類、安楽国に往生するのですが三輩のなかに入らない者がいます。それは疑惑の心を持ちながら、もろもろの功徳を修めて、安楽国に生まれようと願う(者です)。ブッタの智、考えも及ばない智、数え上げられない智、大乗の広大な智、並ぶ者のないこのうえなく優れた智を理解せず、これらの智に対して疑惑を持ち、信じない。それでもなお罪福を信じて善本を修めて、安楽国に生じ、安楽国の七宝の宮殿に生じ、(その宮殿の大きさは)ある人は百由旬、ある人は五百由旬であり、各々そのなかで様々な快楽を受けます。まるで忉利のようなものであり、(必要な物は)すべて自然と生じています。五百年のあいだ、ずっとブッダに会うことはできません。経を聞くこともできません。菩薩や声聞サンガに会うこともできません。安楽国の土地のなかではこれを辺地と言います。またこれを胎生といいます。

コメント
  • この辺地の段では、多く『佛説無量壽經』から引用している。
  • 或百由旬惑五百由旬:大正蔵のテキストでは「或」と「惑」になっているが、ここは『佛説無量壽經』の「彼國人民有胎生者。汝復見不。對曰已見。其胎生者所處宮殿。或百由旬或五百由旬。各於其中受諸快樂。如忉利亦皆自然。」という表現を受けた場所なので、両方とも「或」とするのが正しいはずである。原本の画像データがないので底本が間違っているのか大正蔵が間違っているのかは分からないが、或と惑の形が似ているために誤写が生じたのだろうか。CBETAではこれを訂正して「或」としている。
  • 声聞:一般の出家者のこと。菩薩よりも位が低い。場合によっては大乗の出家者と区別して小乗の出家者のことを指すこともある。声聞という言葉は「教えを聞く者」という意味であり、スッタニパータなど初期の経典では出家者にも在家者にも用いている。『岩波仏教辞典第二版』によればジャイナ教では在俗信者だけを指して声聞と呼ぶそうである。

邊地者。言其五百歳中不見聞三寶。義同邊地之難。或亦於安樂國土最在其邊。胎生者。譬如胎生人初生之時人法未成。邊言其難。胎言其闇。

「辺地」というのは、五百年にわたって三宝に会えないからそれを言うのです。意味は「辺地の難」というのと同じです。別の説では安楽国の土地のもっともはじっこにあるので(辺地と言います)。「胎生」というのは、腹から生まれたばかりの人はまだ人としての法が分からないのをたとえています。「辺」というのはその「(仏教に出会うのが)難しい」ことを言い、「胎」というのはその「(仏法に)暗い」のを言うのです。

此二名皆借此況彼耳。非是八難中邊地。亦非胞胎中胎生。何以知之。安樂國土一向化生故。故知非實胎生。五百年後還得見聞三寶故。故知非八難中邊地也

この二つの名称は、八難や四生のなかから表現を借りて安楽国のことをたとえているのです。これが八難の中の辺地であるという訳ではありません。また実際に腹の中から生まれる胎生なのでもありません。なぜそれが分かるかというと、安楽国土はすべて化生であるからです。ですから実際に胎生ではないことが分かります。五百年後にはまた三宝に出会うことができるのですから、八難の中の辺地ではないことが分かります。

コメント
  • 辺地の難:仏教に出会うことが難しい八つの境遇として「八難」という言葉がある。そのうちの一つが「辺地の難」である。辺境に生まれると仏教に出会いがたいことを言う。当時の中国もインドから見れば遠い地域であり、仏教徒たちはインドを「中土(中心の土地)」、今の中国を「辺土」などと呼んだ。
  • 借此況彼:「これを借りて彼をたとえる」と読む。況には「たとえる」という意味がある(『漢辞海』では漢書を例に引いている)。

<問い3-1:胎生者について>

問曰。彼胎生者處七寶宮殿中受快樂否。復何所憶念。

答曰。經喩云。譬如轉輪王子得罪於王。内於後宮。繋以金鎖。一切供具無所乏少。猶如王、王子于時雖有好妙種種自娯樂具。心不受樂。但念設諸方便求免悕出。彼胎生者亦復如是。雖處七寶宮殿有好色香味觸。不以爲樂。但不見三寶。不得供養修諸善本。以之爲苦。識其本罪。深自責悔。求離彼處。即得如意。還同三輩生者。當是五百年末方識罪悔耳

問い

「その胎生の者は七宝の宮殿のなかにいて、快楽を受けるのですか?また、(そこで)何を思うべきなのですか。」

答え

「経の喩えは言いいます。例えば転輪聖王の子が王に対して罪を得たようなものです。後宮のなかに、金の鎖で繋ぎ、あらゆるものを与えて足りないものは何もないようにします。ちょうどその王や王子のように、好ましい様々なものを得て自ら楽しむものをそなえていても、心は楽しまず、ただ逃れ出るための方法ばかり考えているのです。その胎生の者はまたこれと同じです。七宝の宮殿にいて、見た目や香りや味や触り心地のよいものを所有していても、それを楽しみとはせずに、ただ三宝に出会えないこと、功徳を修められないことを苦しみであるとします。自分の過去に植えた罪を自覚して、深く自ら責めて後悔し、そこから離れることを求めます。するとすぐに思った通りになり、上中下の三輩と同じ状態に戻ります。これは五百年の終わり頃になってまさに罪を認識して後悔するのです。」

コメント
  • 転輪王子:「 転輪聖王 」を参照。
  • 猶如王王子于時雖有好妙種種自娯樂具:訳に若干不安あり。

<問い3-2:疑惑について>

問曰。以疑惑心往生安樂名曰胎生者。云何起疑。

答曰。經中但云疑惑不信。不出所以疑意。尋不了五句。敢以對治言之。不了佛智者。謂不能信了佛一切種智。不了故。故起疑。此一句總辨所疑。下四句一一對治所疑。

問い

「疑惑の心によって安楽国に往生するものを名付けて胎生者とするのですね。(では)何が疑惑を起こすことなのですか?」

答え

「経の中にはただ『疑惑不信』と言っています。疑惑の心の理由については出ていません。『不了』から始まる五句を確認して見ますと、わざわざ疑惑をほろぼすためにこれを言っています。『不了佛智』(仏の智慧を理解しない)とは、仏の一切種智を信じることができないということです。理解しないゆえに、そのせいで疑惑を起こします。この一句(『不了佛智』)は疑惑となるものについて大きく述べています。続く四句は一々疑惑となるものをほろぼすことを述べています。」

コメント
  • 不了五句:佛説無量壽經 (No. 0360 康僧鎧譯 )に出る「不了佛智・不思議智・不可稱智・大乘廣智・無等無倫最上勝智」の五つのフレーズのこと。本文の問い3で胎生者のところに既に引用されている。
  • 總辨:SATの用例から見る限り「総じて述べること」「大きく分けること」の意味だと思われる。主に注釈で用いられている単語である。経典の翻訳にはほとんどと言っていいほど用いられていないようだ。「初教起所由者。先總辨。後別顯。」(『華嚴經探玄記 (No. 1733 法藏述 )』)

<一つ目の疑>

疑有四意。

一者疑。但憶念阿彌陀佛。不必得往生安樂。何以故。經言。業道如秤。重者先牽。云何一生或百年。或十年或一月。無惡不造。但以十念相續便得往生。即入正定聚。畢竟不退。與三途諸苦永隔乎。若爾。先牽之義何以所信。又曠劫已來倶造諸行有漏之法繋屬三界。云何不斷三界結惑。直以少時念阿彌陀佛。便出三界*乎。繋業之義復欲云何。

「疑惑には四つの意味があります。一つ目が(次のような)疑です。(疑う人は次のように言います。)『ただ阿弥陀仏を念ずるだけでは、必ずしも安楽国に往生できません。なぜなら経には「業道は秤のようなものだ。重いものが先頭になって引っ張る」といいます。どうして一生のあいだ、あるいは百年・十年・一ヶ月のあいだ、悪を全く作らないということができるでしょうか。ただ十念を相続させれば往生して、そのまま正定の集まりに入ることができ、(その状態から)最後まで退くことがなくなり、三途の苦しみから永遠に隔たるのでしょうか。もしそうならば「先頭になって引っ張る」という意味はどうして信じることができるでしょうか。また、果てしない時間がすでに去り、その間多くの行いや汚れあることをなして、(われわれは)三界に結びついています。どうして(われわれを)三界に結びつける惑いを断たずに、ただ少しの間阿弥陀仏を念じることで、三界を出るのでしょうか。(念仏往生を主張するなら)「結びつける業」という意味はどうするつもりですか。」と。

コメント
  • 業道:本文の場合、「業(自分がなした善悪の行い)によって趣く六道」ぐらいの意味である。
  • 業道如秤重者先牽。:SATで引く限り経典の出典は見つけられなかったが『成実論』に「業力相障故不得並受。如負二人物強者先牽。」(32.0299c15)と言う。先行研究の『略論安楽浄土義』についての一考察によれば、曇鸞の別の著作で同じ文章を『業道経』の文章として引用しているそうである。
  • 倶造:「ともに造る」という意味だが、本文では何を述べて「ともに」と言っているのか不明。善と悪の二つを「ともに造る」だろうか?
  • 直以: 「 直以 」を参照。

對治此疑故言不思議智。不思議智者。謂佛智力能以少作多。以多作少。以近爲遠。以遠爲近。以輕爲重。以重爲輕。以長爲短。以短爲長。如是等佛智無量無邊不可思議。

  1. 譬如百夫百年聚薪積高千仞。豆許火焚。半日便盡。豈可得言百年之薪積半日不盡*乎。
  2. 又如躄者寄載他船。因風帆勢。一日至千里。豈可得言躄者云何一日至千里*乎。
  3. 又如下賤貧人獲一瑞物而以貢主。主慶所得加諸重賞。斯須之頃富貴盈溢。豈可得言以可有數十年仕備盡辛懃。上下尚不達歸者。言彼富貴無此事*乎。
  4. 又如劣夫以己身力擲驢不上。從轉輪王行。便乘虚空飛騰自然。復可以擲驢之劣夫。言必不能乘空耶。
  5. 又如十圍之索千夫不制。童子揮劍瞬頃兩分。豈可得言一小兒力不能斷索*乎。
  6. 又如鴆鳥入水魚蜯斯斃。犀角觸泥死者咸起。豈可得言性命一斷無可生*乎。
  7. 又如黄鵠呼子安。子安還活。豈可得言墳下千歳齡決無可甦*乎。

一切萬法皆有自力他力自攝他攝。千開萬閉無量無邊。安得以有礙之識疑彼無礙之法乎。又五不思議中。佛法最不可思議。而以百年之惡爲重。疑十念念佛爲輕。不得往生安樂入正定聚者。是事不然。

この疑惑をほろぼすために、不思議智と(経典では)言っています。不思議智とは、仏の智の力が、少から多を作ることが出来る、近から遠を作ることが出来る、軽から重を作ることができる、長から短を作ることが出来る、短から長を作ることができることです。このような仏の智慧は計り知れず果てしなく、考えることができません(=不可思議です)。

  1. たとえば百人の男が百年かけて木をあつめて、積み上げると途方もない高さになりました。しかし、豆ほどの火をたくと、半日で燃え尽きました。どうして百年かけて積んだ薪を半日では尽きさせることができないと言えるでしょうか。
  2. また例えば、脚の悪いものが人の舟に乗せてもらって、風を受けた帆の勢いにより、一日で千里先にたどり着きました。どうして脚の悪いものが一日で千里を行けるはずがないなどと言うことが出来るでしょうか。
  3. また例えば、身分の卑しい貧しい人が一つのすばらしい者を手に入れて主人に差し上げました。主人は得たものを喜んで、たくさんの褒美を与えました。この一瞬の間で、富があふれました。どうして数十年仕えてつらい仕事を一生懸命しても、上のものと下のものでまだ(心が?)達していないならば、彼は豊かになることがないと言えるのでしょうか。
  4. また例えば、力の劣る男が自分の肉体の力ではロバを上に持ち上げることができませんでした。(しかし彼は)転輪王の行によって、空中に浮遊して飛び上がることが自然とできました。ロバを持ち上げることができない貧弱な男だからと言って、必ずしも空を飛ぶことができないと言えるのでしょうか。
  5. また例えば、非常に太いロープは千人の男でも思い通りにできませんが、子供が剣を振るえば、まばたきする間に真っ二つになります。どうして一人の子供の力ではロープを切ることができないと言えるでしょうか。
  6. また例えば、(毒のある)鴆という鳥が水に入ると、魚や貝は死んでしまいますが、サイの角が泥に触れると死んだものはみな起き上がります。どうして命が一度絶たれれば生き返ることはないなどと言えるでしょうか。
  7. また例えば、黄鵠が(墓の上で)子安を呼び、子安は生き返りました。どうして墓の下に千年間いたからといって、決してよみがえることがないと言えるでしょうか。

すべてのものには皆自分の力、他の力、自分でおさめとること、他がおさめとることがあります。千が開けば万が閉じ、計り知れず限りもありません。どうして限界のある認識能力でその限界のないものを疑うことができるでしょうか。また、五つの不思議の中では、仏法が最も不可思議です。(疑う人は、)百年の悪を重いと考え、疑って十念の念仏を軽いと考えます。そして(そのような手段では)安楽国に往生出来ない、正定衆に入れないとします。これはそうではないのです。

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  • 積高千仞:仞は高さによく用いられる単位で、説文によれば両手を広げた長さだという。現代の長さに直すと何mになるかは色々と説があるそうである。後ろに程度の数詞を持ってくる用法。
  • 豈可得言以可有數十年仕備盡辛懃。上下尚不達歸者。言彼富貴無此事*乎:この箇所の訳にあまり自信がない。
  • 飛騰自然:自在に飛び上がることができたの意味ではないかと思うが、「自然」と書かれている。
  • 十圍:圍は『漢辞海』によると「両手の親指と人差し指をそれぞれ合わせた円周の長さ」あるいは「両腕で囲んだ長さ」だそうである。本文の場合それが十個分ということでかなり太いイメージであったようだ。
  • 鴆鳥:鴆(チン)というのは中国の伝説上の生き物で、体に猛毒があると信じられていた鳥のことだという(『漢辞海』)。
  • 魚蜯:蜯は「ホウ(漢音)、ボウ(呉音)」と読み、淡水にいるイシガイ科の二枚貝のこと。どぶがい。
  • 犀角:三省堂『大辞林』によるとサイの角を粉末にしたものが、中国医学で薬として用いられたのだという。仏典でサイの角が出る場合は、「サイの角が一本であるように、比丘も一人で歩め」という犀角喩がほとんどである。薬として登場するのは中国人の書いた文章ならではである。
  • 性命:「 性命 」を参照。
  • WikiArkによれば「『列異伝』 に出る故事。 子安にたすけられた鶴 (黄鵠) が、子安の死後、三年間その墓の上でかれを思って鳴きつづけ、鶴は死んだが子安は蘇って千年の寿命を保った」とのことである(WikiArkは浄土真宗系のネット辞書)。

<二つ目の疑>

二者疑。佛智於人不爲玄絶。何以故。夫一切名字從相待生。覺智從不覺生。如是迷方從記方生。若便迷絶不迷。迷卒不解。迷若可解。必迷者解。亦可云解者迷。迷解解迷猶手反覆耳。乃可明昧爲異。亦安得超然哉。起此疑故。於佛智慧生疑不信。

二つ目に、(次のように)疑います。「仏の智慧は人と比べてはるかに隔たってなどいない。なぜならば、そもそも一切の名前(=概念)は相待により生じている(からだ)。覚智は不覚により生じている。同様に、迷方は記方により生じている。もし迷が不迷を絶ったならば、迷はついに理解出来ないものになる。もし迷が解くことができるものであるならば、必ずその迷は解ける。つまり解=迷であると言うべきだ。迷と解、解と迷、これらはまるで手の裏表のようなものにすぎない。それは暗闇を明るくすることができるということとは訳が違うのである。どうして超然(=不可思議の智)ということがありうるだろうか。」

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難解であるが、おそらく「不可思議の智」というのは矛盾した概念であると指摘した批判である。解けない謎はすでに謎とは呼べない。不可思議の智という場合にも、我々人間に理解出来ない智であるならば、それはもはや智ではないと批判しているのであろう。

  • 相待:「相手を待つもの、相手として待つもの」。この場合、「謎」と「答え」のようなパートナーになる概念のことを「相待」と言っているようである。現代で言うところの「相対概念」に近いが必ずしもぴたりとは重ならない。

對治此疑故言不可稱智。不可稱智者。言佛智絶稱。謂非相形待。何以言之。法若是有。必應有知有之智。法若是無。亦應有知無之智。諸法離於有無。故佛冥諸法。則智絶相待。汝引解迷爲喩。猶是一迷耳。不成迷解。亦如夢中與他解夢。雖云解夢。非是不夢。以知取佛。不曰知佛。以不知取佛。非知佛。以非知非不知取佛。亦非知佛。以非非知非非不知取佛。亦非知佛。佛智離此四句。縁之者心行滅。損之者言語斷。

この疑を滅ぼすために、(経典では)不可称智を言っています。不可称智とは仏の智慧が称(ことば)を離れていることを言います。姿かたちではないものを、どうやってこれを言うことができるでしょうか。ものがもしあるならば、必ず有の智を認識するでしょう。ものがもし無いならば、また必ず無の智を認識するでしょう。ものは有無を離れています。それゆえ、仏はものについて暗く、智は相待から離れています。あなたは解と迷の話を例にしましたが、これはただ一迷だけに過ぎません。迷と解の(二つの概念は)成立しません。たとえば夢の中で彼に夢から覚めることが(ありました)。夢から覚めたと彼は言いますが、夢を見ていない状態でありません。知で仏を捉えても、仏を知ったとは言えません。不知で仏を捉えても、仏を知っているわけではありません。知でもなく不知でもないもので仏を捉えても、仏を知っているわけではありません。「知でもなく不知でもないもの」でもないもので仏を捉えても、また仏を知っているわけではありません。仏の智慧はこの四句を離れています。これによって、心行が滅します。これを壊せば、言語が断たれます。

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  • 非相形待:この「待」の字は疑惑者の「相待」を受けているのだと思われるが、「非相形待」という四字で考えたときに、待がどのような意味になるのかはよく分からない。

以是義故。釋論云。若人見般若。是則爲被縛。若不見般若。是亦爲被縛。若人見般若。是則爲解脱。若不見般若。是亦爲解脱。此偈中説。不離四句者爲縛。離四句者爲解脱。汝疑佛智與人不玄絶者。是事不然。

この道理によって、釈論(大智度論)は言います。「もし人が般若を見たならば、彼は縛られている。もし般若を見なかったならば、それもまた縛られている。もし人が般若を見たならば、彼は解脱している。もし人が般若を見なかったならば、それもまた解脱している」と。この偈の中では、四句を離れないものは「縛」(縛られている)とし、四句を離れているものは「解脱」としています。あなたは仏の智慧が人とは大きく隔絶したものではないと疑っていますが、それはそうでありません。

<三つ目の疑>

三者疑。佛實不能度一切衆生。何以故。過去世有無量阿僧祇恒沙諸佛。現在十方世界亦有無量無邊阿僧祇恒沙諸佛。若使佛實能度一切衆生。則應久無三界。第二佛則不應復爲衆生發菩提心。具修淨土攝受衆生。而實有第二佛。攝受衆生。乃至實有三世十方無量諸佛。攝受衆生。故知。佛實不能度一切衆生。起此疑故。於阿彌陀佛作有量想。

三つ目は(このような)疑です。「仏は実はすべての衆生を救うことはできない。なぜならば、過去の世界に数え切れない途方もない数の仏たちがいた。現在の世界中にもまた数え切れない果てしなく途方もない数の仏たちがいる。もし仏が実際にすべての衆生を救うことができるとするならば、その場合にはとうの昔から三界がなくなっているはずだ。(一人目で救済が完了しているのだから)二人目の仏は衆生のために悟りの心を起こす必要は無く、衆生を受け入れるために浄土の修行をつぶさに修める必要もない。しかし、実際には二人目の仏がいて衆生を受け入れている。二人どころか実際には過去未来現在に渡って、世界中に数え切れない仏がいて、衆生を受け入れている。それゆえ仏は実際にはすべての衆生を救うことはできないと分かる」と。この疑いを起こしたために、阿弥陀仏に対して「(彼の救う能力には)限界がある」という考えを抱きます。

對治此疑故言大乘廣智。大乘廣智者。言佛無法不知。無煩惱不斷。無善不備。無衆生不度。所以有三世十方者。有五義。

  • 一者。若便無第二佛。乃至無阿僧祇恒沙諸佛者。佛便不能度一切衆生。以實能度一切衆生故。則有十方無量諸佛。無量諸佛即是前佛所度衆生。
  • 二者。若一佛度一切衆生盡者。復亦不應後有佛。何以故。無覺他義故。復依何義。説有三世佛乎。依覺他義故。説佛佛皆度一切衆生。
  • 三者。後佛能度。猶是前佛之能。何以故。由前佛有後佛故。譬如帝王之甲得相紹襲後王。即是前王之能故。
  • 四者。佛力雖能度一切衆生。要須有因縁。若衆生與前佛無因縁。復須後佛。如是無縁衆生動逕百千萬佛。不聞不見。非佛力劣也。譬如日月周四下破諸闇冥。而盲者不見。非日不明也。雷震裂耳。而聾者不聞。非聲不勵也。覺諸縁理。號之曰佛。若情強違縁理。非正覺也。是故衆生無量。佛亦無量。徴佛莫問有縁無縁。何不盡度一切衆生者。非理言也。
  • 五。衆生若盡。世間即墮有邊。以是義故則有無量佛。度一切衆生。

この疑いを滅ぼすために、(経典は)大乗広智を言っています。大乗広智とは仏には、知らないものはなく、断っていない煩悩はなく、救っていない衆生はいないということを言います。過去未来現在の世界中に(仏が)いる理由は、五つの道理があります。

  • 一つ目に、もし二人目の仏がいなかったならば、また途方もない数の仏がいなかったならば、仏は一切衆生救うことが出来ないということでしょう。実際に一切衆生を救ったからこそ、世界中に数え切れない仏がいるのです。数え切れない仏はまさに以前仏が救った衆生なのですから。
  • 二つ目に、もし一人の仏が一切の衆生を救いきってしまったならば、のちに仏がいる必要がありません。なぜならば、(利)他の義を悟ることがないからです。何の道理によって、三世仏と言うのでしょうか。利他の義を悟ることによって、各々の仏はみな一切衆生を救うと説くのです。
  • 三つ目に、あとに出てくる仏が救うことができるということは、前の仏の力だとも言うことができます。なぜならば、前の仏によって後の仏がいるからです。たとえば帝王のだれそれが後をついで後の王となれるのは、まさに前王の力のおかげです。
  • 四つ目に、仏の力は一切の衆生を救うことができると言っても、必ず因縁が必要です。もし衆生が前の仏と因縁を持っていないならば、また後の仏に因縁を持たなければなりません。このようにきっかけがない衆生は百千万仏のそばを過ぎようとも、聞かず会わないでしょう。これは仏の力が劣っているからではありません。たとえば日月はをめぐり闇を破りますが、目の見えない人間には見ることができません。これは太陽が明るくないからではありません。雷が耳をさくほどの音を出しても、耳の聞こえない人間には聞こえません。これは音がはげしくないわけではありません。因縁のことわりを悟ったひとを、仏であると呼びます。もしこころが縁起のことわりを強引に違反するならば、正しく悟った人ではありません。このため、衆生は数え切れないほど、仏もまた数え切れないほどいて、仏を求める人もいれば仏に質問しない人もおり、縁がある人もいれば縁の無い人もいます。どうしてすべての衆生を救いきれないなどと言うのでしょうか。道理に合わない言葉です。
  • 五つ目に、衆生がもし尽きたならば、世間はすぐさま有の側に墜ちます。この道理のために数え切れない仏がいて、一切の衆生を救うのです。
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  • 無覺他義故:書き下すと「他義を覺る無き故に」であるが、他義が何を意味するのかが分からない。とりあえず「利他の義」と翻訳した。
  • 紹襲:王位を受け継ぐこと。
  • 勵:『漢辞海』には勵は「勤」の旧字体として出ているが、ここでは「厲」(はげしい)の意味であるようだ。SATで引く限り、普通に仏典に出る場合には「勤」の意味で出ることが多い。
<問い:救うことについて>

問曰。若衆生不可盡。世間復須墮無邊。無邊故佛則*實不能度一切衆生。

答曰。世間非有邊非無邊。亦絶四句。佛令衆生離此四句。名之爲度。其實非度非不度。非盡非不盡。譬如夢渡大海。値濤波諸難。其人畏怖叫聲徹外。外人喚覺。坦然無憂。但爲渡夢。不爲渡河。

問い

「もし衆生が尽きることがないならば、世間はまた無の側に墜ちるはずです。無の側のために、仏は実際にすべての衆生を救うことができないのです。」

答え

「世間は有の側でも無の側でもありません。また(有、無、非有無、非非有無の)四句を隔絶しています。仏は衆生にこの四句を離れさせますが、これが救うということです。実際には救うわけではなく、救わないわけでもありません。尽きるわけでもなく、尽きないわけでもありません。例えば夢で大海を渡り、波や様々な困難に出会って、その人は恐怖で叫び、声は外に響きました。外にいた人が声をかけて目覚めました。何事もなく嫌なこともありません。ただ夢を渡っていたのです。河を渡ったわけではありません。」

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救うということを「渡す」と仏教では言うので、それに合わせた喩え話である。
<問い:救うと言うことについて>

問曰。言渡與不渡皆墮邊見。何以但説渡一切衆生爲大乘廣智。不説不渡衆生爲大乘廣智。

答曰。衆生莫不厭苦求樂畏縛求解。聞渡則歸向。聞不渡不知所以不渡。便謂佛非大慈悲。則不歸向。不歸向故長寢久夢。無由可息。爲是人故。多説渡不説不渡。復次諸法無行經亦言。佛不得佛道。亦不渡衆生。凡夫強分別。作佛渡衆生。言度衆生。是對治悉檀。言不度衆生。是第一義悉檀。二言各有所以。不相違背。

問い

「救う、救わないと言うのはいずれも偏った見解におちいります。なぜ、ただ一切衆生を救うという場合だけ大乗広智と言うのですか。衆生を救わないことは大乗広智と言わないのですか。」

答え

「衆生はみな苦をいやがり楽を求め、縛られることをおそれ解き放たれることを求めます。『救う』と聞けば、帰依して(仏法に)向かいます。『救わない』と聞けば、『救わない』という理由を知らずに、仏は大いなる慈悲の人ではないと言うでしょう。そして帰依せず(仏法に)向かいません。帰依せず(仏法に)向かわないために、長い間眠って(海で困難に遭うような苦しい)夢を見て、休むのに良いよるべもありません。このような人のために、多く『救う』と説いて、『救わない』とは説かないのです。また他に、『諸法無行經』は言っています。『仏は仏道を得ず、また衆生を救わない。凡夫が強いて分別してブッタを作り、衆生を救う』と。衆生を救うと言うのは對治悉檀であり、衆生を救わないというのは第一義悉檀です。二つの言葉にはそれぞれ理由があります。互いに矛盾するわけではありません。」

コメント
  • 諸法無行經:『諸法無行經』 (No. 0650 鳩摩羅什譯 ) in Vol. 15。本文中の偈に「佛不得佛道 亦不度衆生 凡夫強分別 作佛度衆生」(0760b01)とある。
<問い:夢の中での休息について>

問曰。如夢得息。豈不是度耶。若一切衆生所夢皆息。世間豈不盡*乎。

答曰。説夢爲世間。若夢息則無夢者。若無夢者亦不説度者。如是知世間即是出世間。雖度無量衆生。則不墮顛倒。

問い

「夢の中で休むようなことは、どうしてこれが救いではないのですか。もしすべての衆生の夢見ていることが皆やすらげば、世間はどうして尽きないでしょうか。いや尽きるはずです」

答え。

「夢と述べたのは世間のことです。もし夢が休まるのならば、それは(夢の中で休むことではなく)夢がない者のことです。夢がないものにはまた、『救う』ということも説きません。このように世間をそのままで出世間であると知ります。数え切れない衆生を救っていながら、間違った考えに陥ることはないのです。」

<四つ目の疑>

四者疑。佛不得一切種智。何以故。若能遍知諸法。諸法墮有邊故。若不能遍知。則非一切種智故。

對治此疑故。言無等無倫最上勝智。無等無倫最上勝智者。凡夫智虚妄。佛智如實。虚實玄殊。理無得等。故言無等。聲聞辟支佛欲有所知。入定方知。出定不知。又知亦有限。佛得如實三昧。常在深定。而遍知照萬法二與無二。深法非倫。故言無倫。八地已上菩薩雖得報生三昧用無出入。而習氣微熏三昧不極明淨。形待佛智。猶爲有上。佛智斷具足。如法而照。法無量故。照亦無量。譬如函大蓋亦大。故言最上。

四つ目は、(このような)疑です。「仏は一切種智を手に入れない。なぜならばもしすべてのものを遍く知ることができるのならば、すべてのものは有という極端に陥るからだ。もし遍く知ることができないならば、そのときは一切種智ではないからだ。」

この疑をほろぼすために、(経典は)無等無倫最上勝智(=並ぶもののない最高の智慧)を言います。無等無倫最上勝智とは、

  1. 凡夫の智が虚妄であり、仏の智が如実であることです。虚妄と如実でははるかに異なっています。(仏の智に)道理において等しいと言えるものはありません。それゆえ「無等」と言います。
  2. 声聞や辟支佛は知りたいことがあれば、禅定に入ってそれを知ります。しかし、禅定から出るとそれを知りません。また知っていたとしてもその知には限界があります。仏は如実三昧を得て、いつも深く禅定状態にあり、そのうえで遍く知って、すべてのものごとの(有無という)二つの側面、また(真実の立場では)二つの側面はないということを明らかにします。教えの深さにおいて倫(=同グループに属するもの)がいません。それゆえ「無倫」と言います。
  3. 八地以上の菩薩は報生三昧を手に入れて、それによって禅定に出たり入ったりということがありませんが、しかし煩悩を断ったあとの残り香がわずかに三昧を薫じて、完全な清浄ではありません。姿は仏智に近いですが、なおその上があります。仏は智と断を具足しており、法のごとく照らします。法は数え切れないほどあるので、照らすこともまた数えきれません。例えば箱が大きければ蓋もまた大きいようなものです。それゆえ無上と言います。
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  • 玄殊:「 玄殊 」を参照。
  • 照萬法二與無二:すべてのものごとの「二」と「無二」を照らす。ここの二は「有と無」の二つかもしれないし、「世俗と勝義」の二つかもしれない。
  • 八地:「 十地 」を参照。
  • 智斷具足:智と断を具足していること。「得九力故。則智成就。得第十力故則斷成就。智斷具足。故名世尊。人所敬」『成實論』 (No. 1646 訶梨跋摩造 鳩摩羅什譯 )

此三句亦可展轉相成。以佛智無與等者故。所以無倫。以無倫故最上勝。亦可最上勝故無等。無等故無倫。但言無等便足。復何以須下二句者。如須陀洹智。不與阿羅漢等。而是其類。初地至十地亦如是。智雖不等。非不其倫。何以故。非最上故。

汝以知有邊爲難。疑佛非一切智者。是事不然

この三句はまた順々に互いに意味を成立させます。仏智は無與等(並ぶものがいない)ゆえに、無倫(同じグループに属するものがいない)です。無倫(同じグループに属するものがいない)ゆえに、最上勝(もっともすぐれている)です。また最上勝ゆえに無等、無等ゆえに無倫と言うことも可能です。ただ無等と言うだけで十分なのに、またなぜ下の二句が必要なのでしょうか。たとえば須陀洹智は阿羅漢などに不與(並ぶものではない)です。これも「無等」の一種です。初地から十地までもまたこのように、智は等しくありませんが、しかし、同じグループではないというわけではありません。なぜならばそれらは最上ではない(という点で同じグループである)からです。

あなたは知は有の側であるということを理由に非難をなして、仏は一切智者ではないと疑いました。これはそうでありません。

<問い3-3:十念相続について>

問曰。下輩生中。云十念相續便得往生。云何名爲十念相續。

答曰。譬如有人。空曠迴處値遇怨賊。拔刃奮勇。直來欲殺。其人勁走視渡一河。若得渡河。首領可全。爾時但念渡河方便。我至河岸。爲著衣渡。爲脱衣渡。若著衣納。恐不得過。若脱衣納。恐無得暇。但有此念更無他縁。一念何當渡河。即是一念。如是不雜心名爲十念相續。行者亦爾。念阿彌陀佛。如彼念渡。逕于十念。若念佛名字。若念佛相好。若念佛光明。若念佛神力。若念佛功徳。若念佛智慧。若念佛本願。無他心間雜。心心相次乃至十念。名爲十念相續。一往言十念相續。似若不難。然凡夫心猶野馬。識劇猿猴。馳騁六塵。不暫停息。宜至信心預自剋念。便積習成性。善根堅固也。如佛告頻婆娑羅王。人積善行。死無惡念。如樹西傾。必倒隨曲。若*便刀風一至。百苦湊身。若習前不在。懷念何可辨。又宜同志五三共結言要。垂命終時。迭相開曉。爲稱阿彌陀佛名號願生安樂。聲聲相次。使成十念也。譬如蝋印印泥。印壞文成。此命斷時。即是生安樂時。一入正定聚。更何所憂也

問い

「下のランクに生まれるものについての箇所で『十念相続すれば往生出来る』と言いました。何を『十念相続』と呼んでいるのですか。」

答え

「たとえばある人が広い荒野を巡り歩いていると、恐ろしい賊に出会いました。彼らは刀を抜いて勇ましく振り上げて、まっすぐこちらに来て殺そうとしてきます。その人は全力で走って河を見つけて渡ろうとしました。もし河を渡ったならば、首が飛ばされることはありません。そのときただ河を渡る方法だけを考えました。『私が川岸に着いたら、服を来て渡ろうか、服を脱いで渡ろうか。もし服を着ていたら、もしかしたら渡ることができないかもしれない。もし服を脱いだならば、問題はないはずだ』と。ただこのような考えだけがあって、他には何もたよりとするところがなかった。『どうやって河を渡ろうか』という一念が、この(十念の)一念である。このようなまじりけのない心を、十念相続と呼ぶ。修行者も同じである。阿弥陀仏を念じて、その男が河を渡ることを念じたように十念を経る。あるいは仏の名前を念じ、あるいは仏の姿を念じ、あるいは仏の光明を念じ、あるいは仏の神通力を念じ、あるいは仏の功徳を念じ、あるいは仏の智慧を念じ、あるいは仏の本願を念じて、他の心を間にまじえることなく、心を相次いで起こして、そうして十念に至ります。(これを)名付けて十念相続といいます。一回やればそれで十念相続と言います。一見、難しくないようですが、しかし凡夫の心はかげろうのようなもので、思考は猿のように激しく動き、外界の認識対象を走り回り、一時も休むことがありません。深い信心であらかじめ自ら念を刻むのがよいでしょう。そうすれば積もって習慣となり、善の根は堅固になるでしょう。ブッタがビンビサーラ王に告げたのと同じです。『人は善行を積めば、死んで悪念がない。たとえば樹が西に傾けば、必ず倒れてそれに随って曲がるようなものだ』と。(病の状態では)もしはげしい風がひとたび至れば、百の苦しみが身に集まります。もし以前からの習慣がなかったならば、念を抱くことがどうしてできるでしょうか。

また、同志3人から5人で共に取り決めを結ぶのがよいでしょう。『命が終わろうとするとき、交代で朝日が出るまで、阿弥陀仏の名号を唱えて、安楽国に生まれることを願おう。声を相次いで、十念を完成させるのだ』と。例えば蝋の印鑑で泥に印をつけると、印鑑はこわれて模様は完成します。この命が絶たれるとき、そのときがまさに安楽国に生まれるときであり、一人、正定衆に入るのです。他に何か憂えるところがあるでしょうか。」

コメント

十念の相続を助けるために、同志で集まって阿弥陀仏の名号を唱えることが推奨されている。名号自体によって往生するというよりは、あくまで念を絶えさせないための補助として名号を位置づけているようである。

  • 奮勇: 「勇気を奮いたてる」と読みたくなるが、本文では「盗賊が刀を抜いて奮勇した」と書かれている。そこから考えれば、声をあげてこちらを威嚇するようなことを奮勇と述べているのではないだろうか。奮は「鳥が羽を広げるさま」を意味し、「腕をふるい上げる」ときなどにも用いられるので、この場面では刀をふるいあげたと理解した。しかし、用例も少なく確かなことは分からない。
  • 勁走:勁は「つよい、力強い」(『漢辞海』)。勁走は力を込めてすばやく走ることだと考えられる。
  • 但有此念更無他縁:この文の「無他縁」がどのような意味であるかは不明。あるいは音が類似している「無他念」の写し間違いかも知れないが、確かなことは分からない。字義から強引に解釈すれば「他にたよりとするところがなかった」とでもなるのだろうか。ただし、SATで引く限り縁を「たよりにするところ」と理解して「無他縁」と使う用例は同時代には他にないようである。
  • 相好:「 相好 」を参照。
  • 百苦湊身:湊は『漢辞海』によれば「①多くあつまる」の意で、『説文』も「水上で人々が集会するところ」と説明している。本文は「百の苦しみが体にあつまる」と読むのがよいだろう。似たような用例に「時病比丘世尊去不久便自思惟。受此四大衆苦湊集。」(『出曜経』04.0623b27)がある。
  • 又宜同志五三:ここの五三が「5×3=15」を意味するのか、「53」を意味するのか、「5もしくは3」を意味するのかは文面からは判断出来ない。53人ではさすがに多いので、「15人」かあるいは「5人もしくは3人」だと判断した。
  • 言要:「 言要 」を参照。
  • 迭相:迭(テツ・テチ)は『漢辞海』によれば「交代する、替わる、かわるがわるに」の意味。迭相は同じ意味の漢字を重ねた熟語で、「互いにかわるがわるに」という意味だろう。

略論安樂淨土義畢

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