雑阿含経13. 味・患・離

※この翻訳は漢文に対する翻訳です。パーリ語に対する翻訳ではありません。

本文と現代語訳

(一三)

如是我聞。一時佛住舍衞國祇樹給孤獨園。爾時世尊告諸比丘。


7. Tatiyaassādasuttaṃ

28. Sāvatthinidānaṃ.

このようにわたしは聞きました。あるとき仏は舍衞國の祇園に住んでおられました。そのとき世尊は比丘たちに告げました。

「若衆生於色不味者。則不染於色。以衆生於色味故。則有染著。如是衆生。於受想行識不味者。彼衆生則不染於識。以衆生味受想行識故。彼衆生染著於識。


‘No cedaṃ, bhikkhave, rūpassa assādo abhavissa nayidaṃ sattā rūpasmiṃ sārajjeyyuṃ. Yasmā ca kho, bhikkhave, atthi rūpassa assādo, tasmā sattā rūpasmiṃ sārajjanti.

(※以下、パーリと漢訳が順不同のためパラレルを並記しない)

「もし生き物が色(=ものの姿)に味わいを感じないならば、色に拘泥することはない。生き物は色に味わいを感じるがために、拘泥がある。同様に生き物が受想行識に味わいを感じないならば、彼らは識に拘泥することはない。生き物は受想行識を味わいと感じるがために、彼らは識に拘泥する。

 諸比丘。若色於衆生不爲患者。彼諸衆生不應厭色。以色爲衆生患故。彼諸衆生則厭於色。如是受想行識。不爲患者。彼諸衆生不應厭識。以受想行識爲衆生患故。彼諸衆生則厭於識。

比丘たちよ。もし色が生き物にたいしてわずらいでないならば、生き物は色を嫌がらないはずだ。色は生き物のわずらいであるがために、生き物たちは色を嫌がる。同様に、受想行識がわずらいでないならば、彼ら生き物は識を嫌がらないはずだ。受想行識は生き物のわずらいであるがために、彼らは識を嫌がる。

諸比丘。若色於衆生。無出離者。彼諸衆生不應出離於色。以色於衆生有出離故。彼諸衆生出離於色。如是受想行識。於衆生無出離者。彼諸衆生不應出離於識。以受想行識於衆生有出離故。彼諸衆生出離於識。

比丘たちよ。もし色が生き物にとって出離(となる面)を有していないならば、彼ら生き物は色を離れることがなかったはずだ。色は生き物にとって出離(となる面)を有しているがために、彼ら生き物は色を離れる。同様に、受想行識が出離(となる面)を有していないならば、彼ら生き物は識を離れることがなかっただろう。受想行識は衆生にとって出離(となる面)を有しているがために、彼ら生き物は識を離れる。

諸比丘。若我於此五受陰。不如實知味是味。患是患。離是離者。我於諸若魔若梵沙門婆羅門天人衆中。不脱不出不離。永住顛倒。亦不能自證得阿耨多羅三藐三菩提。諸比丘。我以如實知此五受陰。味是味。患是患。離是離故。我於諸若魔若梵沙門婆羅門天人衆中。自證得脱得出得離得解脱結縛。永不住顛倒。亦能自證得阿耨多羅三藐三菩提。


‘‘Yāvakīvañca, bhikkhave, sattā imesaṃ pañcannaṃ upādānakkhandhānaṃ assādañca assādato ādīnavañca ādīnavato nissaraṇañca nissaraṇato yathābhūtaṃ nābbhaññaṃsu [nābbhaññiṃsu (sī.)]; neva tāva, bhikkhave, sattā sadevakā lokā samārakā sabrahmakā sassamaṇabrāhmaṇiyā pajāya sadevamanussāya nissaṭā visaṃyuttā vippamuttā vimariyādīkatena cetasā vihariṃsu. Yato ca kho, bhikkhave, sattā imesaṃ pañcannaṃ upādānakkhandhānaṃ assādañca assādato ādīnavañca ādīnavato nissaraṇañca nissaraṇato yathābhūtaṃ abbhaññaṃsu; atha, bhikkhave, sattā sadevakā lokā samārakā sabrahmakā sassamaṇabrāhmaṇiyā pajāya sadevamanussāya nissaṭā visaṃyuttā vippamuttā vimariyādīkatena cetasā viharanti’’.

比丘たちよ。もしこの五つの執着するかたまりについて、味わいは味わいである、患いは患いである、出離は出離であると、ありのままに知らなかったならば、わたしは・悪魔・梵・沙門バラモン・人というものたちの中で、逃れることも脱出することも離れることもできずに、永遠に誤りのなかに暮らしていただろう。また最高の悟りを自ら知ることもなかっただろう。比丘たちよ。わたしはこの五つの執着するかたまりについて味わいは味わいである、患いは患いである、出離は出離であるとありのままに知ったことによって、・悪魔・梵・沙門バラモン・人というものたちの中で、自ら悟り、逃れることができ、脱出することができ、離れることができ、永遠に誤りのなかに住むことは無くなったのだ。また最高の悟りを自ら知ったのだ。」

時諸比丘聞佛所説。歡喜奉行


対応なし

そのとき比丘たちはブッダの教えを聞いて、喜び承りました。


コメント

ものや感覚や思想には生き物を執着させる「味わい」があり、また生き物を嫌悪させる「患い(わずらい)」がある。ふつう生き物はこれらに振り回されて生きている。しかし、同時に、それらには生き物に「出離」を引き起こす側面もある。

「味わいも患いも出離も存在しない」と否定してしまうのは簡単である。しかし、この経典では、我々に執着を引き起こす作用は何なのか、我々に嫌悪を引き起こすものは何なのか、如実に知ることを求めている。否定によって目をそむけることではなく、理解することによって真の悟りに至るのだという。

もののなかに「出離」の側面もある、という主張は重要である。この視点がないと、「この汚れた世界では悟ることが出来ない」「現世に救いはなく、来世に望みをかけるしかない」などといった、現世否定の異世界主義が出てくる。仏教はあくまでこの世のなかに、解脱を見いだす思想であると筆者は思う。

パラレルについて

パラレル SN.22.28 (<a href=”https://suttacentral.net/pi/sn22.28″>原文</a> ・<a href=”http://komyojikyozo.web.fc2.com/snkv/sn22/sn22c28.htm”>翻訳</a>)

  • パーリでは色の味患離→受想行識の味患離と進んでいるが、漢訳では色受想行識の味→色受想行識の患→色受想行識の離と進んでいる。順番は異なっているが、内容に大差はない。
  • 患いと出離のところではoptativeが「応」という助動詞で訳されている。
  • 漢訳ではブッダが悟ったことを述べているシーンに「 阿耨多羅三藐三菩提 」という言葉が出ているが、これはパーリには見えない。阿耨多羅三藐三菩提はそれほど多く五蘊品に登場するフレーズではないから、あるいは後の時代になって加わったものなのだろうか。パーリではSN.22.26の第一味楽経にだけ阿耨多羅三藐三菩提を出している。

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