佛説忠心經 (No. 0743 伝・竺曇無蘭譯 )

概要

阿含経典に含まれていない小乗系の経典である。前半後半に大きく分かれており、前半には仏弟子の モクレン が邪教徒のいる国におもむいて神通力を発揮し、彼らを改宗させる物語が載せられている。後半には阿含風のスートラがいくつか集められている。冒頭の会のメンバーに菩薩が含まれているが、内容を見る限りでは大乗的要素は見当たらない。また前半の物語と後半のスートラには内容的なつながりはなく、とってつけたような内容になっている。

翻訳者は竺曇無蘭(東晋の孝武帝の時の人、AD300年代後半)となっているが、経録を見る限り本当に彼の翻訳であるかはかなり怪しい。『出三蔵記集』など古い経録では失訳に載せられており、曇無蘭の翻訳であると示されるのは悪名高い『歴代三宝紀』からである。

先行研究では誰も指摘していない(そもそも先行研究が全くといっていいほどない)が、この経典の後半箇所は、『佛説阿含正行經』 (No. 0151 伝安世高譯 ) の完全なパラレルである。物語の前後のつながりの悪さから考えると、モクレンの物語に後から『阿含正行経』を継ぎ足したのではないだろうか。もちろん逆にこの経から教えの部分だけを切り取って『阿含正行経』とした可能性も考えられる。

経録

『出三蔵記集』

 三十七品經一卷晋大元二十年歳在丙申六月出

 賢劫千佛名經一卷

右二部。凡二卷。晋孝武帝時。竺沙門竺曇無蘭。在楊州謝鎭西寺撰出

とあり、曇無蘭の訳に『忠心経』は含まれていない。 また「新集續撰失譯雜經録第一」に「忠心政行經一卷出六度*集或云忠心經舊録有大忠心經小忠心經」とある。これがこの経に相当するのだろう。六度集経のパラレルだというから六度集経にこの経が出ていないかを調べるべきだろう。

『歴代三宝紀』

忠心正行經一卷 出六度集或云忠心經舊録云大忠心經小忠心經 (中略)

右一百一十部合一百一十二卷。孝武帝世。西域沙門竺曇無蘭。晋言法正。於楊都謝鎭西寺蘭取世要略大部出。唯二經是僧祐録載。自餘雜見別録。雖並有正本既復別行。故悉列之示有所據

本文に出三蔵記集では2経だけだったのを別録を見て加えたと記している。しかし、2部から110部に増えるのは増やしすぎだろう。  のちの経録では「中心經」という名前でも出ており、開元釋教錄の入蔵目録に「中心經一卷亦云中心正行經。東晋西域沙門竺曇無蘭譯。拾遺編入」と書かれている。

 本文

No.743

佛説忠心經

東晋竺三藏竺曇無蘭譯

聞如是。一時佛在舍衞國祇樹給孤獨園。時諸菩薩。四輩弟子。龍鬼神。帝王臣民。日會聽經。

このように聞きました。あるときブッダは舍衞国の祇園におりました。ときに菩薩たち、四種の仏教徒(=男女の出家者と男女の在家者)、、龍、鬼神、帝王、国民は布薩の日の会を開いて経を聞いていました。

  • 日會:「日々会して」と読んで「毎日会を開いていた」と理解することもできる。しかし、毎日経を聞く会を開いていたとも考えがたいから、「十五日会」や「七日会」など布薩の日の集会のことを「日會」と書いていると理解した。

■物語パート

佛右面比丘。名曰目連。神通妙達。智如虚空。隨時變化。權智並行。普還濟衆。數如恒沙。諸稽首。靡不師仰。

ブッダの右側にいる比丘は名前をモクレンといい、神通力がすばらしく、また智慧は大空のように大きな人でした。時に応じて姿を変化させて、方便の智慧を合わせて用い、あまねく人々を救いました。その数は大河の砂の数ほどにも上りました。神々たちは頭をさげ、彼のことを師とあおがないものはいませんでした。

<モクレンを外道の地に派遣する>

佛告目連。彼有大國。去斯八千。處在邊境。不覩三尊之至靈。希聞如來無所著正眞等正覺神妙清化。習於顛倒衆邪之行。以爲眞諦。

ブッダはモクレンに告げました。「大国があちらにあって、ここを去ること八千(ヨージャナ?)であり、辺境に位置している。仏法僧の三つのありがたい徳を見たことがなく、執着なく真の悟りを開いた如来の、すばらしく清らかな教えもめったに聞くことがない。誤った考え、多くのよこしまな行いを習慣としている。であるから、正しい真理をつたえよ。

王及臣民。奉事梵志等五百人。各有五通力。能移山住流。分身變化。國有大山。塞民逕路。擧國患之。王以山爲民艱難。具向梵志説之。梵志答曰。吾等自爲民除害。王無慼焉。即繞山坐。各一其心。以道定力。山起欲移。

王と臣民はバラモンなど五百人につかえている。彼らには五神通があり、山を動かしてとどめたり流したりできる。また分身して変化することもできる。国に大きな山が有り、民の道をふさいでいるので、国をあげてこれを憂えている。王は山を民の苦しみだと考えて、つぶさにバラモンにこれを説明した。バラモンは答えて言った。『わたしたちは自発的に民のために害を除きます。王は心配することはありません』。すぐに山を取り囲んで座ると、それぞれその心を集中させた。道の禅定の力で山を持ち上げて動かそうとした。」

佛告目連。汝往彼國。現道神化。長度梵志。濟其君民。令遠三塗。永處福堂。

ブッダはモクレンに告げました。「おまえはこの国に行って、道の神通力を示し、長くバラモンを教化し、君主と国民を救い、三途(地獄・餓鬼・畜生の三つの道)から遠ざけて長く福堂にいるようにさせよ。」

  • 慼:「セキ」「うれえる、①心配なさま。②悲しい」。(漢辞海)

<モクレンが神通力を発揮する>

 目連受教。承佛威神。尋路放光。遏絶日明。懸處虚空。當其山巓。山爲不動。梵志驚曰。此山已起。誰迴之乎。日又無光。此將有以。中有明者。以定意觀衆弟子心。誰穢濁者。令山不移。覩見諸心。普有道淨。國榮寶色。不穢其心。仰頭觀見。覩一沙門。當其山上。梵志僉曰。正是瞿曇弟子所爲。梵志呼曰。王令吾等爲民除患。汝抑之爲。目連答曰。吾自懸虚。誰抑汝等山。梵志三盡道力。欲令山移。山入三下。遂成平地。

モクレンは教えを受けました。ブッダの威神を受けて、道をたどり光を放ちました。太陽のあかりを遙かに超えたまぶしさで、空中に留まりましたが、そこはまさにその(バラモンが動かそうとしている山の)山頂でした。山は動かなくなりました。バラモンは驚いていいました。「この山はすでに持ち上がった。だれがこれを元に戻すのか。太陽は光がない。これはきっとなにか理由があるはずだ。中に光りを放つものがいる。禅定の力で多くの弟子の心を見よう。誰の心が濁っていて、山を移動させないのだろうか。」弟子たちの心を見ましたが、全員道をたもちきれいな心でした。国の栄誉や宝物のすがたはその心を汚していませんでした。あたをあげて見ると、一人の沙門が見えました。まさにその動かそうとしている山の上です。梵志は~して言いました。「まさにこれはゴータマの弟子のやったことだ。」梵志は呼んで言いました。「王はわたしたちに命じて民の憂いをのぞかせようとしている。お前はこれを抑えるのか。」モクレンは答えました。「わたしは自分で空中に留まっているだけだ。誰がお前たちの山を抑えているというのか。」バラモンは三度、道力を尽くして山を移そうとしましたが、山は三回ともモクレンの下に入って、とうとう平地になってしまいました。

 梵志顧相謂曰。夫有明達。道徳深者。即吾等師。咸興整服。稽首敬白。願爲弟子。示吾極聖。目連答曰。汝等欲去瞑就明者善。吾有尊師。號無上正眞中之。爲一切智。汝等尋吾往至佛所。諸梵志曰。佛之導化。寧殊於師乎。目連曰佛以須彌爲芥子。吾以芥子爲須彌。歎佛徳畢曰。汝等尋吾後。

バラモンは顧みて互いに言いました。「実に知恵に到達しており、道徳が深いものである。彼こそまさにわたしたちの師だ。」全員立ち上がると、服を整えて頭を下げてうやうやしく申し上げました。「どうか弟子にしてください。わたしに極めて聖なる教えを示してください」。モクレンは答えました。「お前たちが、くらやみを去って明かりにつこうとしているのは善いことだ。わたしには尊い師がいる。このうえなく正しく、のなかのであり、一切智の人であると言われている。お前たちは私のあとに続いて悟った人のところに行くとよい。」バラモンたちは言いました。「ブッダの教え導きは、先生(=モクレン)よりもすばらしいのですか」。モクレンは言った。「ブッダは須彌山(しゅみせん、世界一高い山)を芥子粒にする(ぐらい大きい人だ)、わたしは芥子粒を須彌山にする(ぐらい小さな人だ)」。ブッダの徳を述べおわって、言いました。「お前たち、わたしのあとをついてきなさい。」

  • 巓:「テン」。「山頂、いただき。」(漢辞海)

<バラモンの改宗>

目連接諸梵志。猶若壯士屈伸臂頃。即在佛前。具陳其情。白佛言。吾承無上正眞神勢之化。化諸梵志。斯等内外已淨。猶若新易可爲色。唯願世尊。蕩其微垢。令成眞淨。梵志見佛。心開意喜。皆作沙門。

モクレンは梵志たちに接すると、まるで若くて健康な男が肘を曲げ伸ばしするほどのあいだに、(ぱっと移動して)すぐにブッダの前にいました。つぶさにその事情を述べてブッダに申し上げました。「わたしはこのうえない真実の神通力の力を受けて、バラモンたちを教化しました。かれらは心の中も身の行いも清浄です。まるであらたに作った布が簡単に色に染まるように(彼らもよく教えを吸収するでしょう)。どうか世尊よ。彼らの小さな垢を洗い落として完全な清浄を完成させてください。」バラモンはブッダを見て、心を開き喜びました。皆、沙門となりました。

  • 蕩:「トウ」「①ゆり動かす。②とりのぞく、③ながす、そそぐ」(漢辞海)。『説文』は河の名前だと説明しているが、『釈名』は洗い落として垢を除くことだと説明している。本文の例は『釈名』のほうに合致している。

■スートラパート

佛言我爲汝曹説經。上語亦善。中語亦善。下語亦善。語中深説。度世之道政心爲本。聽我所言。使後世傳行之。諸比丘皆叉手受教。

ブッダは言いました。「私はお前たちのために経を説こう。はじめの言葉よく、中の言葉よく、終わりの言葉がよい教えだ。言葉の中では深く『悟りを得る道は心を正すことを大本とする』と説いている。わたしの言ったことを聞いて、後世にこれを伝え行うのだ。」比丘たちはみな手を交叉して教えを受けました。

<1.五蘊

佛言人身中。有五賊。牽人入惡道。何等爲五。一者色。二者痛痒。三者思想。四者生死。五者識。是五者人所常念。

ブッダは言いました。「人の身体の中には人を悪道へ引っ張りこむ五人の賊がいる。五つとは何か。一つ目がものの姿である。二つ目が感受したものである。三つ目が思想である。四つ目が生死である。五つ目が識別したものである。この五つは常に人の頭を占めているものである。」

五蘊(色受想行識)を述べている。訳語が現代に一般的なものとは異なっている。

<2.五根>

佛言人常爲目所欺。爲耳所欺。爲鼻所欺。爲口所欺。爲身所欺。目但能見不能聞。耳但能聞不能見。鼻但能知香臭不能知味。口但能知味不能知香臭。身體但能知寒温不能知味。是五者皆屬心。心爲本。

ブッダは言いました。「人はいつも目のために欺かれる。耳のために欺かれる。鼻のために欺かれる。口のために欺かれる。身のために欺かれる。目はただ見ることができるだけで聞くことはできない。耳はただ聞くことができるだけで見ることはできない。鼻はただ香りやにおいを知ることができるだけで味を知ることはできない。口はただ味を知ることができるだけで香りやにおいを知ることはできない。体はただ寒暖を知ることができるだけで味を知ることはできない。この五つは皆心に属し、心を大本にしている。」

<3.十二因縁>

佛言。諸比丘。欲求道者。當端汝心。人從癡故。隨十二因縁。便有生死。何等爲十二因縁。一者癡。二者行。三者識。四者名色。五者六入。六者。七者痛。八者愛。九者受。十者有。十一者生。十二者死。

ブッダは言いました。「比丘たちよ。道を求めるならば、お前の心を整えるべきだ。人は愚かさによって、十二の因縁に随い、そうして生死がある。十二因縁とは何か。一つ目が愚かさ、二つ目が行、三つ目が識、四つ目が名色、五つ目が六入、六つ目が触れること(栽?)、七つ目が感受、八つ目が愛、九つ目が受け取ること、十個目が有(生存)」、十一個目が生じること、十二個目が死である。

 施行善者。復得爲人。施行惡者入地獄餓鬼畜生鬼神中。佛坐思念。人癡故有生死。何等爲癡本。從癡中來。今生爲人。復癡心不解。目不開。不知死當何趣。見佛不問。見經不讀。見沙門不承事。不信道徳。見父母不敬。不念世間苦。不知*地獄中考治劇。是名爲癡。故有生死不止。

善を行ったり、善に布施したものは、また人の身を得ることができる。悪を行ったり、悪に布施したものは地獄・餓鬼・畜生・鬼神の中に入る。悟った人は座って思念した。『人には愚かさのせいで生死がある。なにが愚かさの本だろうか。愚かさの中から来て、今生まれて人となり、(生まれ変わっても)また愚かであって、心は理解しないし目は開いていない。死んだあとどこに行くのかを知らない。悟った人を見ても質問しない。経を見ても読まない。沙門を見てもつかえない。道徳を信じない。父母を見ても敬わない。世の中の苦しみを思わない。地獄の中の拷問の激しさを知らない。これを愚かさと言う。これによって生死があり止むことがない。』と。

人死如呼吸之間。脆不過於人命。人身中有三事。身死識去心去意去。是三者。常相追逐。施行惡者。入*地獄餓鬼畜生鬼神中。施行善者。 三亦相追逐。或生上。或生人中。墮是五道中者。皆坐心不端故。

人は息を吸って吐くような短い間に死んでいる。人の命ほどもろいものはない。人の身には三つのものがある。身体が死んだならば識、心、意が移動する。この識・心・意の三者は常に一緒に移動している。悪を行ったり、悪に布施したものは、地獄・餓鬼・畜生・鬼神の中に入る。善を行ったり、善に布施したものは、識・心・意の三者がそれにしたがって、あるものは上に生まれ、あるものは人中に生まれる。この五道(地獄・餓鬼・畜生・人・)に墜ちるものは、皆坐ったまま、心を整えていないせいで墜ちるのだ。』

  • 考治:「拷問にかけて罪を調べる」(漢辞海)。SATで検索すると「地獄の考治」といった用例がいくつもヒットする。漢辞海は『漢紀』の用例を引いているので、仏典に限った用語ではないようだ。

<4.四沙門果・五戒>

佛告諸比丘。皆當端汝目。端汝耳。端汝鼻。端汝口。端汝身。端汝心。身體皆當斷於土。魂神當不復墮泥犁畜生鬼神中。視人家有惡子。爲吏所取。皆坐心不端故。

ブッダは比丘たちに告げました。「お前たちはみな、自分の目を整えるべきだ。自分の耳を整えるべきだ。自分の鼻を整えるべきだ。自分の口を整えるべきだ。自分の身を整えるべきだ。自分の心を整えるべきだ。身体はみな土の上で死ぬ。魂は二度と地獄・畜生・鬼神の中に墜ちることはない。(地獄に墜ちるのは)人の家を視察すると悪事をなした子供がいた。そのため役人に捕まえられた(ようなものだ)。皆座ったまま心を整えていないせいである。

人身中有百字。如車有百名。人多貪好怒。不思惟身中事。死入*地獄中。後悔無所復及。我棄國捐轉輪王憂、斷生死。欲度世間人使得無爲道。

人には百の名前がある。車に百の名前があるのと同じだ。貪欲が多く怒りっぽい人は、自分の身のことを考えず、死んでから地獄の中に入る。後悔してもどうすることもできない。私は国を捨て、転輪王となる憂いを捨てて、生死を断じた。世の中の人を救い、無為の道を得させようとした。

 第一精進者。立得阿羅漢。第二精進者。得阿那含。第三精進者。得斯陀含。第四精進者。得須陀洹。雖不能大精進。當持五戒。不殺不盜不婬不兩舌不飮酒。

一番修行に励んだものは、アラカンとなる。二番目に修行に励んだものは、アナゴンとなる。三番目に修行に励んだものは、シダゴンとなる。四番目に修行に励んだものは、シュダオンとなる。大修行を行うことができないならば、五戒をたもて。殺さず、盗まず、姦淫せず、二枚舌をせず、酒を飲まない。(これが五戒である。)」

<5.四念処>

佛言。人坐起常當思念四事。何等四。一者自觀身。觀他人身。二者自觀痛*痒。觀他人痛*痒。三者自觀意。觀他人意。四者自觀法。觀他人法。内復欲亂者心當自端。視*身體。飢亦極。飽亦極。行亦極。住亦極。坐亦極。寒亦極。熱亦極。臥欲來時當自驚起。坐端心坐。心不端者。當起立。立不端者。當經行。心儻不端者。當自正。譬如國王將兵出鬪。健者在前。既在前鄙復却適欲却著羞後人。

ブッダは言いました。「人は座っているときも立っているときも、いつも四つのことを念頭に置くべきだ。四つとはなにか。一つ、自分の身を観察し他人の身を観察せよ。二つ、自分の感覚を観察し他人の感覚を観察せよ。三つ、自分の心を観察し他人の心を観察せよ。四つ、自分の法を観察し他人の法を観察せよ。内に乱れようとしているものがあるならば、心は自らそれを整えるべきだ。身体を見て、飢えが極端だ、飽食が極端だ、行動が極端だ、行動しないことが極端だ、座っているのが極端だ、寒いのが極端だ、熱いのが極端だ(と思ったらそれを整えよ)。横になりたい時には、自分ではっと目を覚ませ。座るときは心を整えて座る。心が整わないならば立ちあがるのがよい。立って(心が)整わないならば、歩き回るのがよい。心がぼんやりして整わないときは、自ら正すのがよい。例えば国王が兵を率いて戦いに出向くときに、健強なものが前にいる。すでに前にいれば鄙復却適欲却著羞後人(?)

  • 鄙復却適欲却著羞後人:撤退がどうのと言っているようだが訳せなかった。

<6.悟りの喜びと報恩>

諸比丘。既棄家捨妻子。剃鬚髮爲沙門。雖一世勤苦。後長解脱。*已得道者。内獨歡喜。視妻如姉弟。視子如知識。無貪愛之心。常當慈哀十方諸人民。*地獄餓鬼畜生蜎飛蠕動之類。皆使富貴安隱度脱。得*無爲之道。見蟲獸當以慈哀愍傷之。知生不復癡。

比丘たちよ。すでに家を捨て妻子を捨てて、髪とひげを剃り沙門となった。一世は修行に苦しむといえども、のちに長い解脱がある。すでに道を得たならば内にただ歓喜をいだく。妻を見ても姉弟のように見え、子供を見ても知り合いのように見えて、貪るような愛の心はなくなる。いつも世界中の神々、人民、地獄、餓鬼、畜生、飛び跳ねる虫や地面を這う虫にまで、慈哀の心を抱き、皆を豊かにし安穏にし、救い出す。無為の道を得て、虫や獣を見れば慈哀の心によって彼らの痛みをあわれむ。(彼のもとには)知が生じ二度と愚かさに帰ることはないだろう。

能有是意者。常念師恩。事佛如人念父母。如獄中死罪囚。有賢者往請囚出囚。黠慧者常念賢者恩。比丘*已得道者。當念佛。如是念經。當如人念飮食。

この心を得ることができたものは、いつも師の恩を思い出し、仏に仕えることは人が父母のことを考えるようである。たとえば、牢獄の中に死罪の人がいた。賢者がやってきて頼んで彼を牢獄から出させた。囚人が知恵のあるものならばいつもその賢者の恩を思い出すはずだ。比丘が道を得たならば、これと同じように仏のことを思いなさい。経のことを思うときは、ちょうど世間の人が飲食のことを考えているように、いつも思いなさい。

<7.教えを伝えることと戒律のようなもの>

諸比丘。當轉相承事。如弟事兄。中有癡者。當問黠者。展轉相教。問黠者如瞑中有燈火。無得陰謀作惡。無得諍訟。見金銀當如見土。無得妄證人入罪法。語言無得妄中傷人意。不聞莫言*聞。不見莫言*見。行道當低頭視地蟲。無得蹈殺。無得目貪人婦女。無得形相人婦女。坐自思惟。去貪愛之心。乃得爲道耳

比丘たちよ。弟が兄につかえるように、たがいに敬いつかえて教えを受け継いでいきなさい。中に愚かなものがいたならば、賢いものに質問しなさい。脈々と互いに教えていくのだ。賢いものに質問することは暗闇の中で灯火の火を得るようなものだ。陰謀をめぐらしたり悪をなすことはないようにせよ。争いが起きることはないようにせよ。金銀を見ても土塊のようなものだと見ろ。いいかげんな証言で人を罪に陥れることはないようにせよ。言葉を語れば、いいかげんではなく、人の心を中傷することもない。聞いていないことを『聞いた』と言うな。見ていないことを『見た』と言うな。道を行くときは頭を下げて地面の虫を見て、踏み殺すことがないようにせよ。目で貪るように人の妻や娘を見ることがないようにせよ。人の妻や娘に形相(?)しないようにせよ。座って自ら考えて、貪るような愛の心を除け。そうしてこそ無為の道を得るのだ。」

  • 儻:「精神がぼんやりするさま、心が定まらないさま」。「(動)えこひいきする(=党)」。「(副)たまたま、偶然に(=党)」。本文のは一つ目の用法の「精神がぼんやりするさま」であろう。

<8.呼吸法、鏡のたとえ>

佛告諸比丘。欲求道者。當端汝心。於閑處坐。自呼吸其氣息。知息短長。長息不報。形體亦極。閉氣不息。形體亦極。分別思惟。形體誰作者。心當視内。亦當觀外。自思惟歡然與人有異心。當是時不用下珍寶。心稍欲隨正道。意復小動者。即還自守其意。意即爲還。

ブッタは比丘たちに告げました。「道を求めるものは、お前の心を整えるべきだ。静かな所にすわって、自発的に空気を呼吸する。息の長短を知る。長く息をして吸わないならば、肉体にとって極端だ。口を閉じて息をしないならば、これも肉体にとって極端だ。よく考えてみる。『肉体は誰が作ったのだろうか』。心は内を見るべきだ。また外を見るべきだ。自らよく考えると、喜びの状態になり、人と異なる心がある。まさにこのとき、下の珍宝を用いないでも、心は少しずつ正しい道に随おうとする。心は小さく動くだけになり、そしてすぐに自らその心を守る状態に還る。心はすぐに還となる(?)。

譬如人有鏡。鏡不明則不見其形。磨去其垢。乃自見形。人以去貪婬瞋恚愚癡。譬如磨鏡。端自思惟。下無堅固。皆無有常

たとえば人が鏡を持っているときのようだ。鏡が明らかでないならばその姿を見ることができない。磨いて垢を去れば、自分の姿を見る。人が貪り、怒り、愚かさを除くことは鏡を磨くことに喩えられる。自らを整えて『下に堅固なものなどない。みな永遠不変ではない。』と思考する。」

<9.心を石のようにたもて>

佛告諸比丘。持心當如四方石。石在中庭。雨墮不能壞。日炎亦不能消。風吹亦不能動。持心當如石。

ブッタは比丘たちに告げました。「心を保つことはちょうど四方の石のようにせよ。石は庭の中にあって、雨が墜ちても壊すことはできない。日光の暑さもまた(石を)消すことができない。風が吹いてもまた動かすことができない。心をたもつことはまさにその石のようにせよ。」

<10.流水の草木>

佛言。下人心。如流水中有草木。各自流行。不相顧望。前者亦不顧後。後者亦不顧前。草木流行。各自如故。人心亦如是。一念來一念去。亦如草木前後不相顧望。於下無所復樂。寄居地間。棄身不復死。

ブッダは言いました。「下の人の心は流水の中にある草木のようなものだ。それぞれ流れにしたがう。たがいに顧みることもない。前にあるものは後ろを顧みない。後ろにあるものは前を顧みない。草木が流れ行くのは各々あるがままであるためだ。人の心もこのようなものだ。一念が来て、一念が去る。草木が前後をたがいに顧みないようなものだ。の上にもの下にも、楽しみにするものなどない。地の間にかりそめに身を寄せているだけだ。身を捨てたならば、二度と死ぬことはない。(=二度と輪廻しない?)。

道成乃知師恩。見師即承事。不見者思惟其教誡。如孝子念父母。意定乃有一心。便慈哀天下人民蜎飛蠕動之類。坐獨自歎已脱身於下及五道。一者道。二者人道。三者畜生道。四者餓鬼道。五者*地獄道。已得羅漢道者。便能飛行變化。身中能出水火。*能出無間入無孔。欲離世間。取*無爲去者即能

道が完成したならば、師の恩を知る。師を見て教えを受け継ぎ、つかえる。師に直接まみえることがないならば、その教えをよく考える。孝行息子が父母を思うように、心を定めて一心をたもつ。そうして下の人民や飛びはねる虫、地を這う虫のたぐいを慈哀する。坐禅してひとり、はっとため息をつく。『すでに下と五道の身を脱した』、と。(五道というのは)一は道、二は人道、三は畜生道。四は餓鬼道。五は地獄道である。すでに阿羅漢道を得たならば、空を飛び姿を変えることができ、身体から火や水を出すことができ、すきまのないところから出てきたり穴のないところに入ることができる。世間を離れたければ、無為を取って進めば、すぐに出来るであろう。」

<11.結び>

佛告諸比丘。道不可不學。經不可不讀。

ブッダは比丘たちに告げました。「道を学ばないのは不可である。経を読まないのは不可である。」

佛説經已。五百沙門。皆得阿羅漢道。阿難白佛言。 是諸沙門。聞經意解。何其疾也。佛言。此諸比丘前迦葉佛時。受誦斯經。中間無佛。隨世因縁廢不復聞。至吾爲説。聞即得道。佛説經竟。諸菩薩。四輩弟子。帝王人民。龍鬼神。無不歡喜。爲佛作禮

ブッダがこの経を説き終わりました。五百の沙門はみな阿羅漢の道を得ました。阿難はブッダに申し上げました。「この沙門たちは経を聞いて意味を理解しました。なんと理解のはやいことでしょうか。」ブッダは言いました。「この比丘たちは前の迦葉仏のときにこの経を受けて唱えていたのです。中間にブッダのいない時期があり、世の因縁にしたがって廃れてしまい聞くことがなくなっていました。わたしの時代になってこれを説いたの、聞いてすぐに道を得たのです。」ブッダが経を説き終わって、菩薩たち、四種の弟子、帝王、人民、神々、龍、鬼神はみなよろこび、ブッダに礼をしました。

佛説忠心經

ブッダの説いた心を中心とする教え。


読んでみて分かったことだが、「忠誠心について説いた経典」ではなく、「心を中心とする経典」という意味で『佛説忠心經』というタイトルがついているらしい。経録にも『中心経』というタイトルがしばしば見えている。

こんなことを言うのもあれだが、モクレンが趣いた国は、果たして悪い国だったのであろうか。国王にしてもバラモンにしても至って善良であり、そのうえきちんと神通力まで身につけているからいいかげんな宗教だったわけではないらしい。力を誇示してまで改宗させた理由がいまいち釈然としない物語である。

阿含に収録されていないという点、六道輪廻説などが登場している点、ブッダや弟子たちの神格化が進んでいる点などから見て、比較的新しく創作された小乗経典だと私は判断している(新しいといってもブッダの死から見て新しいというだけで、現存する一番古い経録が作られたころには既に成立していた経典である)。

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