佛説八正道經 (No. 0112 安世高譯 )

No.112.[No.99(784-785)]

佛説八正道經 後漢安息國三藏安世高

仏説八正道経 後漢安息国の三蔵、安世高の訳。

聞如是。一時佛在舍衞國祇樹給孤獨園。佛告諸弟子。

このように聞きました。あるとき仏は舍衞国の祇園におりました。仏は弟子たちに告げました。

 

聽我説邪道亦説正道。

「私の邪道についての説と正道についての説を聞きなさい。

何等爲邪道。不諦見不諦念不諦語不諦治不諦求不諦行不諦意不諦定。是爲道八邪行

何が邪道であるか。ただしく見ないこと、ただしく志向しないこと、ただしく語らないこと、ただしく(身を)治めないこと、ただしく求めないこと、ただしく行わないこと、ただしく意識しないこと、ただしく(心を)定めないこと。これが道についての八つの邪まな行いである。

何等爲道八正行。

何が道についての八つの正しい行いか。

一者諦見。諦見爲何等。信布施、信禮、信祠、信善惡行自然福、信父母、信下道人、信求道、信諦行、信諦受。今世後世自黠得證自成。便相告説。是爲諦見

一つ目がただしく見ることである。ただしく見ることとは何か。布施を信じ、礼拝を信じ、まつることを信じ、善悪の行いとそれによる福を信じ、父母を信じ、下の道の人を信じ、ただしい行いを信じ、ただしい受を信じ、現世や後世で自分の智慧によって悟りを得て自ら完成すること。そうして互いに(それを)教え会うこと。これがただしく見ることである。

第二諦念爲何等。所意棄欲棄家不瞋恚怒不相侵。是爲諦念

二つ目のただしく志向することとは何か。欲を捨てよう、家を捨てよう、怒らないようにしよう、互いに侵さないようにしようと心がけること。これがただしく志向することである。

第三諦語爲何等。不兩舌不傳語不惡罵不妄語。是爲諦語

三つ目のただしく語ることとは何か。二枚舌をしないこと、他人の言葉を本人のいないところで他人に告げ口しないこと、悪口や罵りをしないこと、いいかげんな言葉を語らないこと。これがただしく語ることである。

第四諦行爲何等。不殺盜婬。是爲諦行

四つ目のただしく行うこととは何か。殺さない、盗まない、姦淫をしない。これがただしく行うことである。

第五諦受爲何等。是聞有道弟子法求不可非法。飯食床臥病痩正法求不可非法。是爲諦受

五つ目のただしく受けることとは何か。博識であり道をたもっている弟子は法により(布施を)求め、非法によって求めるべきではない。飲食物・寝床・病気(のときの薬)は正法により求め、非法によって求めるべきではない。これがただしく受けることである。

第六諦治爲何等。生死意共合行所精進行出力因縁行乃精進不厭意持。是爲諦治

六つ目のただしく(身を)治めることとは何か。生死意共合行所精進行出力因縁行、そうして精進して嫌になることなくそれを保つ。これがただしく(身を)治めることである。

  • 「生死意共合行所精進行出力因縁行」は難読。「生死と意と共に合して精進すべきを行い、力を出して因縁行を行ず」と読むのだろうか。宇井伯寿は「生死意共合して行じ、所精進にして行じ、出力因縁にして行ず」と読んでいる(宇井『訳経史研究』)。

第七諦意爲何等。生死行合意念向意念不妄不共意求。是名爲諦意

七つ目のただしく意識をするとは何か。生死行合意念向意念不妄不共意求。これがただしく意識をすることである。

  • 「生死行合意念向意念不妄不共意求」は難読。「生死の行は意念に合し、意念に向かう。妄りならず、意求と共ならず」と読むのだろうか。

第八諦定爲何等。生死意合念止相止護已止聚止不可爲。不作所有罪。不墮中庭。是名爲諦定。

八つ目のただしく(心を)定めることとは何か。生死意合念止相止護已止聚止不可爲、あらゆる罪を作らず、底の中に堕ちない。これがただしく(心を)定めることである。

  • 「生死意合念止相止護已止聚止不可爲」は難読である。書き下すとするならば「生死と意と合して、なすべからざることを止相し、止護し、已止し、聚止するを念ず」と言ったところだろうか。
  • 底は庭と音通。地獄のことだろうか

比丘。所有道弟子。當受是八種行諦道。如説行可得道八行覺。

比丘よ。あらゆる道の弟子は、この八種の行からなるただしい道を受けるべきである。説いたように行動するならば、道を得て八種の行いで悟るだろう。

(以下、注釈的内容)

諦見者

「信布施」後世得具福。

「信禮」者見沙門道人作禮福。

「信祠」者懸繒燒香散花然燈。

「信所行」十善是爲自然得福。

「信父母」者信孝順。

「信下道人」者喜受經。

「信求道」者爲行道。

「信諦行」者斷惡意。

「信諦受」者不犯戒。

「今世後世自黠爲得黠」。能教人得證。

「自成」者能成人。能成他人。「便相告説」。

是名爲諦見知。如是便自脱亦脱他人

諦見について。

  •  「信布施」とは布施をしたらあとになって福を身に受けることができる、ということである。
  •  「信礼」とは沙門などの道の人を見て礼をすることは福になる、ということである。
  •  「信祠」というのは布飾りを掛けて、香を焚き、華を散らして、灯火を燃やすことである。
  •  「信所行」というのは十善はそれにより福を得ることができると考えることである。
  •  「信父母」というのは孝順を信じることである。
  •  「信下道人」というのは経を喜んで受けることである。
  •  「信諦行」というのは悪い意を断つことである。
  •  「信諦受」というのは戒を犯さないことである。
  •  「今世後世自黠爲得黠」というのは人に教えて悟りを得させることができることである。
  •  「自成」というのは自らを完成させることができ、(また)他人を完成させることができることである。「そうして互いに告げ説く」。

これを名付けてただしい見解の智慧という。このように自らも解脱し、他人もまた解脱させる。

 

第二諦念所意起者爲失意。欲棄家者爲念道。不瞋恚怒者爲忍辱。不相侵者當正意

二つ目のただしい志向について。

  • 「所意起(=棄と音通)」とはを失おうという意志のことである。
  • 「欲棄家」は道を志すことである。
  • 「不瞋恚怒」は辱しめを忍ぶことである。
  • 「不相侵」は実に意を正すことである。

第三諦語者。不惡罵不犯口四過。但説至誠。道品諦要

三つ目のただしい言葉について。 「不惡罵」などは口の四過を犯さないことを述べている。ただ極めて誠に語ることは、道のうえで肝心なことである。

第四諦行者不殺盜婬而行誠信

四つ目のただしい行いとは殺・盗・姦淫をせず、誠実に行動しろということである。

第五諦不墮貪者。但求一衣一食爲賤醫

五つ目のただしく貪欲に墜ちるなとは、ただ一つの衣と一つの食事を求めて卑しい医者であれということである。

第六諦治者爲向三十七品經

六つ目のただしく(身を)治めるとは。三十七品の教えに向かうことである。

※三十七品=菩提三十七道品のこと。四念処、四正勤、四神足、五根、五力、七覚支、八正道の三十七項目。

第七諦意者日増三十七品經不離意

七つ目のただしく意識をするとは、日々三十七品の教えを増し、こころを離れないようにすることである。

 

第八諦。止者不忘因縁。止者常還意護。已止者一切無所犯。聚止者得福道。

八つ目の諦について。

  • 「(最初の)止」とは、縁起の法を忘れないことである。
  • 「(二つ目の)止」とは常に意を帰して守ることである。
  • 「已止」とは一切犯すところがないことである。
  • 「聚止」とは福や道を得ることである。

佛説如是。皆歡喜受

仏はこのように説きました。皆喜んで受けました。

佛説八正道經


コメント
 後漢代の僧侶、安世高が翻訳したと伝えられる八正道についての経典である。本当に安世高の訳であるか疑問が持たれるが、最古の経録である『出三蔵記集』にすでに安世高訳として記されており、また訳語の上から見ても彼の訳と見て大過ないようである。

前半は八正道の定義を述べており、後半はこれに対する注釈になっている。この注釈が原文の時点で存在したものなのか、それとも安世高がつけたものなのかは不明である。注釈には「十善」や「三十七品」など前半部分には出ていない用語が登場しており、時代的にも前半部分よりあとの製作だと考えられる。

後漢という古い時代の翻訳と言うこともあって一部難読であり、現代語訳することができなかった。特に「生死」と関連する箇所がうまく読めていない。「生死」という単語は古い時代には「輪廻」の意味で使われることがあるのだが、本文の「生死」は「輪廻」の意味で解釈しようとしてもうまく読めないようである。

その他注記

  • 「自然」は「それにより」と訳した。
  • 「堕中庭」は庭を底の音通と見て、「底の中に堕する」と訳した。
  • 諦念の注釈部分に「所意起」とあるが、これを前半部分と見比べると「所意棄」と書かれている。したがって起=棄と理解した。音通で誤字が生じたらしい。上の「堕中庭」もそうだが、こうした誤字は少なくないようである。

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